年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

平成も29年となれば

2017年09月14日 | 築地市場にて

昭和の記憶も平成29年となれば記憶も薄れる。平成と昭和の年末は天皇誕生日の違いとなる。23日が祭日となり、週休2日制となれば年末に3連休となり、商戦がクリスマスが重点となるが給与前であると実に静かとなる。昭和の30年代の銀座のクリスマスはバカ騒ぎだった。

今は少子化でクリスマスも静かとなるが和風の正月用食品は実に減ったし、変化した。昨年は干し大根を見かけることをしなかった。本物の三浦大根も12月26日に入荷したが、何時までも築地市場に残っていた。売れ行き不調なのだろうか。

 平成が終われば年末に天皇誕生日が消える。地球温暖化でクリスマスの雪による交通混乱が減った気がする。

 まだ築地市場の例年のカレンダ-の発表がまだない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張本草学の系譜 小笠原登2

2017年09月12日 | 築地市場にて

最近の報道で最高裁判所がハンセン氏病患者の裁判における扱いに対して謝罪したというのがあった。詳細は知らないので記事はスル-した。しかし尾張本草学の本から(小島の春)と言う戦前の映画を知った。この映画は本が30万も売れ、映画で観客は涙したと言うがハンセン氏病患者は憤慨したと言う。文化勲章を受けた光田健輔は強伝染性の考えを主張し、隔離策を招いた。多分最高裁判所はこの隔離策を謝罪したようだ。

 学会の主流でなかった小笠原登はハンセン氏病は弱伝染性で治療で治ると考えていたようだ。この著者を読むと森鴎外が脚気に対して伝染病と主張し、海軍の実証実験を批判し、日清・日露の戦争で脚気のよる病死者が銃や砲弾によって死亡した人より多かった。森鴎外の暗い一面がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張本草学の系譜 小笠原登

2017年09月11日 | 築地市場にて

尾張の本草学を知りたくて、この本を借り出した。江戸時代の本草学は今の用の医学のための薬草さがしという役目があった。小笠原登はハンセン氏病に関係してくる。何故か福神漬の資料調査でハンセン氏病にたどり着く。何かがあるとしか思えない。

 資料を読むと幕末期以前に尾張藩には他の藩と違った本草学が発展する基盤があった。その基盤の上に東海道を通過する旅人から情報を得ていたようだ。一時は幕府と対決していた尾張藩の体質が尾張本草学の水谷豊文・伊藤圭介・田中芳男へと繋がる博物学・植物学へゆく系統と医学にゆく系統を発展させたようだ。

 大垣藩関係の宇田川 榕菴(うだがわ ようあん)も関係していて、伊藤圭介が江戸で一月ほど宇田川と同居していたようだ。築地の蘭学の巣窟だった桂川家に蔵書と蘭医が集まってくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由党左派からテロリストへ

2017年09月10日 | 福神漬

神栖市の図書館で加波山事件の資料を読む。

明治の自由民権運動が福島事件のあと自由党左派は過激化し、爆弾製造しテロに向かいます。もしテロリストの血縁と判ったら日本では堂々と語ることは出来ないでしょう。

 福島事件は国事犯として禁固刑でしたが後の過激となった民権を唱えた事件は強盗とかの理由で常時犯として懲役刑となる裁判でした。従って子孫や縁者や地域の人たちは語ることを止めていたようです。

 加波山事件70年の記念式典でも偵察していた茨城県の警察と式典警備のいざこざがあって、翌日の新聞報道では警察官が暴行されていたと記事になり、これに反証した人たちが根拠の不十分なまま警察を非難したため名誉毀損裁判で負けたようです。戦後の話です。

 このような事実を聞くと福神漬に入っている(ナタマメ)の寓意は中々語ることは出来ないと感じる。テロの被害は広範囲で長く続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神栖市息栖神社行き

2017年09月09日 | 福神漬

東国三社の茨城県神栖市息栖神社に行きました。香取民衆史の花香恭次郎が明治6年頃横浜から息栖の地へ行きました。農業経営を学ぶためでしたが直ぐに東京に出戻ります。一度息栖の地を見てみたいと思っていました。息栖神社のある息栖は利根川水運交通の要所の一つで外洋から来た船から利根川水運へ積み替える拠点港の一つだったようです。さらに東国三社鹿島・香取神宮と共に息栖神社も参拝の対象だったようで松尾芭蕉等の文化人が参拝しているようです。海抜は1.4Mしかなく内陸港だったと思われます。明治末期には交通網の発達で水運が衰退し今では昔の面影がないようですが堤防に上がると小見川等の千葉県側の丘が直ぐ側に見えます。

 花香家と幕臣大久保平之小承との関係があったのでしょうか。神栖の地域は元禄10年の(地方直し)を経て享保以後所領支配の変更が無かったようで金森・大久保・妻木氏の支配が明治4年の廃藩まで続きました。息栖村は大久保氏の支配で232石でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾張本草学

2017年09月08日 | 福神漬

幕末御三家の筆頭の尾張藩の本草学が発展した。水谷豊文を中心とした医学、薬学ための植物学が発展した。長崎からシ-ボルトが江戸に来る途中会っていたようだ。後に水谷の弟子である伊藤圭介が長崎にゆくこととなる。その伊藤圭介について学んだのが長野県飯田市出身の田中芳男だった。田中は福神漬命名者の一人になっている文献がある。

 尾張本草学は旧来の日本での秘伝と隠された学問等の伝承を排除し、公開されてぞれぞれの人たちの相互の研究をしていたようだ。中国から伝わった本草学は日本と中国とが同じでは無いと気がついたのは貝原益軒の大和本草からだと言う。盲目的に文献解題をしていたようだ。植物学でリンネの分類を日本で始めたのは尾張本草学の水谷豊文という。ここにもシ-ボルトの影響がある。福神漬伝説に異説が多いが相互に関係があって、中々異説といって排除が出来ないことに気がつく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化年間に何があったのか

2017年09月07日 | 福神漬

江戸時代の文化年間(1804-1818)は西洋では19世紀が始まったばかり時である。この時期から福神漬の話を進めた方がよいと感じる。江戸時代の初めの河村瑞賢とか了応禅師とかの福神漬伝説もあるが明治の10年代に創製された福神漬缶詰伝は文化年間から記述を始めた方が明治10年代の上野周辺の事情を説明しやすいと感じる。文化文政年間は上方文化が停滞し江戸文化が発展する時期に当たる。江戸でも商人の力が強くなり、武士の力が金力に押される時期になった。退廃的な江戸文化が盛んになった時でもある。

 長崎にナポレオンの余波で英国船フェ-トン号が日本にやってきた時でもあった。関東近辺の幕府支配力が形骸化か目立つ時でもあった。文化2年に就任した火付盗賊改長井五右衛門昌純(文化8年末まで)、北町奉行小田切土佐守直年(寛政4年から文化8年)南町奉行が根岸 鎮衛(ねぎし やすもり)寛政10年から文化12年) 江戸の治安維持の3者が例外的に長期担当となっている。この件で文化時期を論じている歴史学者はまだ知らない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊洲移転日の発表日

2017年09月06日 | 築地市場にて

ようやく豊洲移転工事の予算が通過し、後は工事が始まるだけ。この工事はかなりの難工事で普通の業者なら引き受けないだろう。なぜならもし何年か後工事ミスが発見されたら都議会で追及されるのは必死で安い価格で引き受けることはないだろう。今は手持ち工事がいっぱいで豊洲工事を請けた業者以外は魅力のない案件かもしれない。

 地下水の検査で業者が都議会に呼ばれる事など普通は想定しない。入札はかなり少ない業者で行われる気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊洲移転予算が通過して

2017年09月05日 | 築地市場にて

遅れた豊洲市場への移転予算が都議会を通過した。数年前に想定した取引状況の変化で再度社内会議が始まる。天候不順と言うことで冷凍野菜の需要があるという。豊洲で冷凍保存し、自然解凍でバックヤ-ドの狭い飲食店に野菜の高騰時期にあわせて供給すると言う。冷凍技術の進歩が激しく、後は解凍輸送問題となる。23区内の飲食店需要をまかなえるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長谷川伸全集11巻

2017年09月03日 | 福神漬

新橋芸者ポン太のことから長谷川伸全集11巻明治の女・明治の男を読む。ついでといったら長谷川伸のネタ帳とも言うべき随筆を読む。前から長谷川伸の歴史小説が鶯亭金升との都新聞記者時代に交流が会ったようで、そこから材料を得ていたのでは考えていたが11巻の材料ぶくろと言うところ(大原親子三代)都新聞時代に疑問に思っていたと言う記述があった。相馬大作事件も鶯亭から少しは聞いていたのではないのだろうか。17年間北町奉行を勤めた榊原忠之の時代で、火付盗賊改の職にあったのは鶯亭の祖父に当たる長井五右衛門昌純だった。南町奉行が筒井政憲の時期もほぼ同時期であった。江戸町奉行と火付盗賊改との交流は無いとされているが筒井の斡旋で戸田氏栄3男が旗本長井家に養子に入った。長井家の断絶を避けるためであったという。相馬大作を捕まえたのは長井昌純で裁いたのは榊原だと言う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やはり中央区なのか

2017年09月02日 | 福神漬

福神漬伝説のなかに河村瑞賢説がある。明治に創製されたので実に怪しい伝説で調べる気も薄く、今日再度資料調査をする。平成22年出版の新川物語には河村瑞賢屋敷が明暦の大火の後新川に屋敷を構え、新川開削と共に水運の便のよい新川付近に急速に酒問屋が林立したと言う。

 河村瑞賢の功績の中で日本海運網の確立をしたことである。新酒の輸送競争が海運物流を発展させた。しかし日本船の構造上の問題があって、外洋に出ると天候の異変による船舶の損傷で海難が増えることとなった。このことの資料は石井研堂がよく調べている。アメリカが人道問題を出して自国の権益を増大させるのは今でも続いているがモリソン号に遭難日本漁民を返還する目的で浦賀にやって来たのも人道目的で開国を迫ることだった。ただモリソン号が蒸気船でなかった為、囲い船戦略で目的で果たせなかった。

 イメ-ジとして夜の太陽電池、風のないときの風力発電のようなものだった。大きいけれど自然には勝てなかった。しかし蒸気機関ノ黒船は違った。風のない状況で前進や後進することができ浦賀の人たちを驚かし囲い舟戦略が取れなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新川物語を読んで

2017年09月02日 | 築地市場にて

河村瑞賢の本を京橋図書館で借り出し、アマゾンで購入。かってといっても平成22年には3軒になってしまった新川にあった酒問屋のことを書いてあった本。福神漬に関連する人物が多数出てくる。

 この本で誤りのあるところは鹿島屋のポン太の墓が三遊亭円朝の墓の隣にあるというところである。谷中の全生庵の円朝の墓にポン多の墓があったのを見た時、愛犬の墓と思っていたがネットで事情を探ると弟子の墓であった。同じ敷地にあるので生前大切にしていた人だろう。 日本酒問屋の栄枯盛衰は歴史の短い漬物業より変化が激しい。

 米関連産業の衰退は日本らしさの衰退に繋がる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする