ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

寿命と死

2008-01-26 18:04:33 | Weblog
昔と違って医療が進んで寿命が驚く程のびてきた。
それでも命は幾らお金を出しても買えないものだ。
お金持ちや偉い人の訃報を見たり聞いたりして、
亡くなった年を見ると意外に若い人が多い。
十分な治療を受けられる環境や状態にあっても寿命
はどうすることも出来ないと云うことに違いない。
少し先延ばしすることは可能だろうけれど完全な治
癒に持って行くことは現代の医術を持ってしても、
古の皇帝が求めた不老長寿の薬草を手に入れるまで
には至っていない、と云うことなのだろう。

両親とも九十才をこえる長生きをしたから、みんなに
「あんたは百才まで大丈夫」と云われるけれど寿命を
当てることは誰にも出来ない。

中学生の頃には四十才ぐらいまで生きればいいのでは
ないかと考えていた。
高校時代には夭逝した人の本を読んで死に憧れを抱いた
りもした。
だが家庭を持ち過労死寸前のようなハードワークを連日
続ける生活をしていて、ハッと気が付くと四十五才に
なっていた。
もう少し続けていれば恐らく過労死していた。
するとそこまでが私の寿命だった筈だ。
しかし仕事を変えて人生のリセットが出来た。
確かに寿命は親から受け継ぐDNAが大きく影響する
のだろうが生活環境の占める割合も非常に大きい。

それにしても、いつも思うのだが、人の身体の組織と
云うのか器官と云うのか分からないけれどは本当に
凄いの一語につきる。
生きていることが不思議でならない。
つい最近読んだ本に書いていたのだが、身体も細分化
して行けば最終的には分子になる、と云っていた。
どうして涙を流し、声を出して笑い、人を愛するのか
分子では到底できることではない。

ああもう止めよう。
古希が近くなると自分は泰然と死を迎えることが出来る
のか、などとよく考える。
後一ヵ月とか三ヵ月と宣告された人が笑顔で家族と語り
合っているのを見たりすると、どうしてあのような表情
でいられるのか尋ねてみたくなる。
恐らく人生を生き切った、という自負心からなのだろう。

悔いのない毎日を送らなければ、と思うけれど、
これは本当に難しい。