ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

H教授の逝去の報に接して

2011-11-06 22:14:07 | ひと
大学時代の同級生から、東日本大震災以来、久々に連絡が届いた。
卒業論文のゼミの指導者だった教授が、半年ほど前に亡くなっていたのだそうだ。(亡くなった時は、名誉教授である。)
このたび、その先生を偲ぶ会があると言う。
その案内が来ていると思うが、出席するかどうか、を尋ねられた。
ところが、あいにく私のところには、その案内は届いていなかったので、出席はしない旨を告げた。

H教授。
大学1年で基礎演習をとった時、同じ新潟県出身だということがわかった。
だが、講義は、理屈っぽくて早口で、よく聴いていても今一つよくわからない、というのが正直なところだった。

さて、私が通った大学の学科では、卒業論文は、必修だった。
卒業論文は、300字原稿用紙に、100枚以上を書くことが求められた。
4年生になり、卒論のゼミの担当教授がやはりH先生になった。
H先生は、6月末までに卒論の草稿を10枚、9月末までに30枚書くことを求めた。
10枚は何とか書くことができたが、30枚というと問題意識や理論のない私には難しく、新たに書くことも提出することもできなかった。
同じゼミ仲間で親しかった2名が、30枚は書けないと言って、私同様に未提出であった。
そのことが、さすがにH先生の怒りを買った。
11月末、研究室を訪ねた私たち未提出の3人に、H先生は、こう言った。
「私の指導に従えない者には、単位をやるわけにはいかない。君たちが卒論を書いても、私は見ない。君たちの処遇は、学科長会議に預ける。卒業したかったら、100枚の卒論を書いて提出してみることだ。ただし、卒業は、学科長会議で決めることだけどね。」

卒業論文の提出日は、1月7日正午だった。
それから、必死になって、文献をあさり、書物を読み、卒論の構想をまとめた。
さすがに、12月、年の瀬残り1週間になってからは、100枚の卒論を書くのに、巨大なプレッシャーが襲ってきた。
そこから1枚目を書き始め、100枚を越える論文を書いた。
大事なときに発熱もしたが、気合で熱を下げることができることを知った。
とにもかくにも、1月7日午前11時に提出することができた。
2か月半の後、不合格の「D」でなく、最低ラインの「C」であったが、卒業論文の単位を取得することができた。

卒論のゼミをこうしてヨコに出てしまった私だから、偲ぶ会の案内が届かなかったのだろう。
H教授。
ある意味、世の中で生きることの厳しさを教えてくださった方である。
ルールは守らなくてはいけない。
約束の期限は守らなくてはいけない。


その後、社会人となっても、私はいつもエンジンのかかりが遅い。
締め切り間際の提出、ということが多い。
しかし、あの卒論の時の、切羽詰まったどうしようもない気分を思い出すと、なんでもやれるのである。
また、今では、切羽詰まると、それまでにないアイデアや、乗り切るパワーが湧き出てくる、というのが自分なのだということも認識するようになった。
だから、締め切り間際まで、よいものにしようとあがくことも多いのだが…。

ともかく、私に人生の大切なことを教えてくれたH教授には、今となっては感謝しているしだいである。

合掌。
コメント
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