ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

都道府県対抗男子駅伝、新潟県チーム目標達成とはいかなかったが、立派な健闘!

2024-01-21 18:56:01 | 新潟

今日は、都道府県対抗男子駅伝があった。

その中継を楽しみにしていた。

1週間前の都道府県対抗女子駅伝では、県の目標順位が20位台で、29位と健闘した。

今回の男子駅伝では、10位台が新潟県の目標順位。

大学生・社会人区間には、青学大で活躍し現在GMOインターネットに所属する岸本大紀選手と、箱根駅伝で2年連続5区山上りで区間賞の城西大・山本唯翔選手が出場する。

2人とも今までロードに強い実績を残している。

だから、楽しみだった。

ただ、懸念があるとすれば、高校生。

今年は、速いランナーがいない。

新潟日報紙でも、1、4、5区の高校生区間を目標達成のポイントに挙げていた。

1区のランナーが先頭のペースに食らいけるか。

8・5キロのアップダウンの激しい5区では粘り強く走れるか。

そこが鍵となりそうだと紹介していた。

 

いざレースが始まってみると、やっぱり甘くなかった。

タスキ渡しの中継地点やゴール地点を除くと、新潟県チームはテレビには映らなかった。

懸念した通り、1区7㎞で43位と出遅れた。

1位との差は1分42秒で、19位のチームとは53秒の差。

これは、2区の中学生区間で挽回するのは苦しい。

それでも、2区で小海楽空選手 (十日町・吉田中)が、区間2位とは2秒差で区間6位の好記録。

8分40秒で3㎞を走り、8人抜きを果たし、順位を35位に引き上げた。

 

そして、次の3区8.5㎞は期待の岸本選手。

6.8㎞までに9人を抜き区間10位の激走で、全体26位となっていた。

次の高校生ランナーにタスキを渡したときには、変わらず全体26位。

最終的に区間12位ということだったので、後半少し伸びを欠いたか。

でも、26位まで上がってきたから、上位が近づいてきた。

 

続く高校生区間の4区5㎞だが、ここは鍵の区間の一つ。

高校駅伝の県大会で、誤誘導(?)があったために逆転されて全国大会に行けなかった中越高校の皆川武蔵選手が走った。

その悔しさを晴らすような好走。

区間17位は立派な結果。

新潟を24位まで押し上げた。

 

次の5区の高校生区間もこの調子でいきたいところだった。

だが、5区は8.5㎞と、高校生には距離が長い。

ここに力のあるランナーがいる県は、強い。

優勝した長野県は、ここで佐久長聖高のランナーが2位以下を突き放す好走を見せ、優勝をぐっと手繰り寄せた。

新潟県チームは、やはりここがちょっと弱かった。

区間40位となり、全体順位も11落として35位に下がってしまった。

さすがに、ここまで下がると、目標順位の10位台は難しい。

 

6区3㎞の中学生区間は、区間27位ながら順位は変わらず35位。

粘りを見せたが、19位との差は3分50秒もある。

さすがに、最終区で1人でこれをひっくり返すのは難しい。

 

それでも、最終7区13㎞で、「山の妖精」山本唯翔選手は、懸命に追い上げた。

5.2㎞地点で、区間5位の走りで2人を抜いて33位に浮上した。

さらに、9㎞地点では、区間4位の走りでさらに1つ上げて32位。

最後は、山口と競い合いながらゴール。

テレビの速報順位では山口に及ばず28位と出ていたが、その後正式記録が出ると、新潟県チームは、27位。

山口県チームと同タイムながら、紙一重でかわしていたようだ。

さすが、山本唯翔選手。

区間4位で、8人抜きで新潟県を27位まで引っ張り上げた。

目標順位の19位チームとの差は、なんと37秒差まで詰めていたのだった。

走る前までは、3分50秒差もあったのに、3分半近くも縮めていたのだ。

すごい!さすが箱根駅伝のMVP金栗四三杯受賞者だけのことはある。

 

新潟県チームは、目標達成とはならなかった。

だが、48㎞走って37秒差とは、その目標が現在のチーム力に合っていたものだったとも言える。

なにしろ、去年は23位と今年より順位は上だったが、19位とは53秒の差があった。

今年は、37秒差である。

そこからすれば、新潟県チームは大いに健闘したと言えると思う。

 

新潟県チームの皆さん、大変お疲れさまでした!

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まだ1月なのだけど…

2024-01-20 20:15:47 | 自然・季節

今日見た、近くの公園での光景。

公園内の遊具の間にも、まるで何かのモニュメントのように白い塊が、ぽつりぽつりと点在していた。

これが何かといえば、言わなくても分かるでしょうけど…。

 

これは、雪の塊。

近寄って見ると、その両側に細い枝があった。

そう、これは、雪だるまのとけたものだ。

きっと、雪だるまの手のつもりで枝を刺したのだろうが、とけてしまったというわけだ。

きっと頭にした部分もあったのだろうけど、そこも落っこちてとけてしまったのだろう。

 

1月で、こんなに陽射しが強いのは、以前から比べると珍しい。

だから、周りの雪も頭の部分も一気にとけてしまったのだ。

1月でもこれだけ雪がない冬を過ごせるのは、ありがたい。

 

いい陽気だ。

でも、まだ1月なのだよな。

この光景は、本来3月のもののはずだ。。

来週はまた少し雪の予報もあるが、これから2週間が過ぎれば、こちらでいう大雪にはならないだろう。

数年前まであまりなかった、1月の陽気。

それが、去年も今年も、ということは、やはり温暖化が進んでいるということなのだろうな。

子どもの頃は、小学校の廊下の木床を水ぶきでぞうきんがけした後、しばらくすると水で濡れた床板の一部がよく凍っていたことがあった。

それだけよく冷え込んでいたということだ。

それが今は…。

 

とけ残った公園の雪の塊を見ながら、この気候に一抹の不安を覚えたのだった。

 

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「はじめての」(島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都著;水鈴社)を読んだ後、YOASOBIの楽曲を聴く

2024-01-19 20:29:16 | うた

最近の歌で、聴いていて心地いいのは、YOASOBIの歌。

「夜に駆ける」がヒットしたときには、上がり下がりがあって早口で、ずいぶん歌いにくい歌だなあとか思ったりしたが、「もう少しだけ」が「めざましテレビ」のテーマソングとして流されていた頃から、気持ちよく聴けるようになった。

以降、ダウンロードやCDによって、YOASOBIの曲を購入して聴くようになった。

 

彼らは、去年は「アイドル」を大ヒットさせた。

そんなYOASOBIの特集番組として、去年5月にNHKの番組で、「MUSIC SPECIAL YOASOBI ~小説を音楽にする魔法~」という放送があった。

その番組では、「『はじめての』プロジェクト」というYOASOBIが取り組んだプロジェクトを紹介した。

YOASOBIは、「小説を音楽にするユニット」として、小説から歌詞やメロディを生み出し、音楽を作り上げてきている。

この「はじめての」プロジェクトは、4人の直木賞作家に小説を依頼し、書き上がった作品を原作として4曲の新曲を生み出すというものだった。

その番組では、新たな小説を書き下ろした4人の作家 島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都と、YOASOBIのメンバーが一人あるいは二人で対談し、小説にこめた作家の思いを知ったり、そのストーリーをもとにYOASOBIがどのように曲としての表現を生み出していったりしたのかを明らかにしていた。

 

その番組を見てから、「はじめての」プロジェクトで作られた4曲をダウンロードして、何度か聴いたのだった。

作家たちの小説を、どれもAyaseが作詞作曲し、ikuraが歌って表現する。

なかなか見事なものだと思った。

曲は聴いたけれども、4つの小説はまだ読んだことがなかった。

このたび、図書館から単行本で「はじめての」(島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都著;水鈴社)を借りて読むことができた。

 

「はじめての」というだけあって、1つ1つの作品に、どういうときに読む物語なのか書いてあった。

 

★「『私だけの所有者』――はじめて人を好きになったときに読む物語」(島本理生)

➡「ミスター」(YOASOBI)

★「『ユーレイ』――はじめて家出したときに読む物語」(辻村深月)

➡「海のまにまに」(YOASOBI) 

★「『色違いのトランプ』――はじめて容疑者になったときに読む物語」(宮部みゆき)

➡「セブンティーン」(YOASOBI)
★「『ヒカリノタネ』――はじめて告白したときに読む物語」(森絵都)

➡「好きだ」(YOASOBI)

島本氏の「私だけの所有者」に「初めて好きになったときに読む物語」とあったり、森氏の「ヒカリノタネ」に「はじめて告白したときに読む物語」とあったりするのは、なんだか笑みがもれる。

だが、辻村氏の「ユーレイ」は、「はじめて家出したときに読む物語」……、ん?家出?家出って、そんなにするものか!??

まだそこまでは笑えるけれど、宮部氏の「色違いのトランプ」は、「はじめて容疑者になったときに読む物語」とある。

おいおい、容疑者になることってあるのかい?

しかも「はじめて」って、2回も3回も容疑者になるのか?と、そこを見ただけでも笑ってしまった。

作品には、SF的な物語やその要素を含むような物語もあった。

それぞれ短編小説で、フィクションであるから、まあどんな内容でもよいのだけどね。

 

1つ1つの作品についての感想を述べるのはしないでおく。

だけど、それぞれの物語を読んでから、YOASOBIの作った歌を聴くと、「へえ~、うまいものだ」「音楽化できるなんてすごいな」と感心した。

4曲とも曲調にそれぞれ工夫があり、また小説を読んでいるからこそわかる詞がついている。

よくもまあ、これだけの曲を作るものだと、コンポーザーのAyaseに感嘆した。

そして、それを表現して歌い上げるボーカルのIkuraに感心した。

 

これらの曲は、概して3分から4分のものなのだが、それぞれミュージックビデオもある。

それらは、どれもYOASOBIの歌声とともにアニメーションの映像が流れている。

YOUTUBEで、それぞれの作品映像を見ながら、楽曲を聴いた。

作品によって、小説の物語を追うアニメのスタイルにも変化があって、見ていて面白かった。

小説や歌のイメージを壊していないのだ。

これはいい。

これは最高だ。

 

私の場合、①楽曲→②小説→③ミュージックビデオの順番で作品を味わうことになったが、こういう楽しみ方ができるのは楽しい。

これができるのは、YOASOBIだからこそだ。

読書をしながら、彼らのもっている力に改めて感心した。

YOASOBIは、間違いなく新たな型をもった表現者なのだということを強く認識したのであった。

 

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「友情 平尾誠二と山中伸弥『最後の一年』」(山中伸弥 平尾誠二・惠子著;講談社)を読む

2024-01-18 22:09:59 | 読む

iPS細胞を生んだノーベル賞医学者・山中伸弥氏と、ラグビーのレジェンド的存在の平尾誠二氏。

2人の友情の物語は、テレビでも何度かやっていた。

NHKの「アナザーストーリー」でやっているのを見たのは、もう3年も前になる。

昨年秋には、テレビ朝日系でドラマ化されていた。

平尾誠二氏を本木雅弘が、山中伸弥氏を滝藤賢一が演じていたが、あまりにもよく似ていた画像に驚きもした。

久しぶりに訪れた図書館に目立つように本書が展示されていたのは、その放送があったからだろう。

 

ラグビーと医学というまったく異なる分野でありながら、それぞれ知らない人がいないほどの大きな存在の2人。

その2人が、2010年に実現した雑誌の対談で出会い、意気投合した。

40代から親友になるのは珍しいともいうが、急速に親交を深め、やがて家族ぐるみの付き合いをするほどの友になった。

ところが、2015年、突然、平尾氏は末期がんに襲われた。

それからというもの、弱音を吐かずに前向きに病と闘う平尾氏。

夫人をはじめ彼の家族は、優しく見守り続けた。

そして、医師として、治療法や病院探しに奔走し、最後まで平尾氏に寄り添い続けた山中氏。

本書からは、2人の熱い友情が感じられる。

 

 

本書は、大きく3章から構成されている。

第1章 平尾誠二という男

この章は、山中氏が、様々なエピソードから出会いや平尾氏の人となりを語っている。

平尾氏をしのぶ「感謝の集い」で、山中氏は「君の病気を治すことができなくて、本当にごめんなさい」と語っていることに、胸を打たれる。

第2章 闘病—山中先生がいてくれたから

この章は、平尾誠二夫人の惠子さんが、闘病する平尾氏が山中氏に対して強い信頼をもっていたことについても語っている。

第3章 平尾誠二×山中伸弥 「僕らはこんなことを語り合ってきた」

この章では、2人が初めての対談で何を語ったかが書いてある。

 

第3章の対談を読むと、2人が語り合う中で、互いにひかれ合うものがあったのだろうと思う。

平尾氏の言葉に山中氏が学んでいることも、印象深い。

特に、「人を叱る時の4つの心得」だ。

―プレーは叱っても人格は責めない

―あとで必ずフォローする

―他人と比較しない

―長時間叱らない

これらは、地位的に上にある人なら、叱り方の効果についてうなずくところが多いだろう。

そして、𠮟り方を知らない上司を持つ部下たちは、叱り方はこうであってほしいと思うことだろう。

こんなふうに、対談全体を通して、互いに相手をリスペクトして学ぼうという気持ちが伝わって来る。

 

また、平尾氏が亡くなった後、京都マラソンに出場した山中氏は、自己ベストを大きく更新する3時間27分45秒で走ったのだが、この時には平尾氏の「先生、行けるで、行けるで」という声が聞こえた気がしたという。

京都は、平尾氏の出身地であり、伏見工業高のあった土地だから、思い入れが強いのかと考えた山中氏だった。

 

こんなふうに、2人の出会いがあって生まれた実話だからこそ、1つ1つ重みがある。

こんな世知辛い世の中なのに、人(山中氏)を信じる平尾氏、人(平尾氏)のために親身になって最善を尽くす山中氏の姿は、たしかに感動ものだ。

ドキュメンタリーやドラマなどに、何度も取り上げられるのも分かる話であった。

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春遠からじ? 久々の散歩

2024-01-17 20:00:09 | 自然・季節

腰痛発症から約2週間。

ようやく痛みから解放されて、普段の感覚に近づいてきた。

そうは言いながらも、まだ日中コルセットを外してはいないのだが。

このコルセットは、25年前に作ったものだが、この2週間は寝るとき以外ずっと付けていた。

40代前半のあの頃は、人生で最もウエストが広がってメタボだった時期であった。

走るようになってからぐんぐんやせたから、その当時からウエストは10㎝くらい細くなった。

だから、その頃買ったスーツのズボンなどは、腰回りが今はぶかぶかである。

コルセットも、実は同様であった。

できるだけ締めつけてはいるが、付いているベルトが折り返しの金具から余り過ぎている。

それでも、腰への負担はだいぶ減ったように思う。

この2週間、体を前に倒すと痛みが来るせいで、靴下をはくことも、ズボンのはき替えも、両手をつかって洗顔することも、皆うまくいかなかった。

今朝、久しぶりに両手で顔を洗うことができた。

痛みがなくズボンをはいたり顔を洗ったりできることは、当たり前のことではないのだ。

 

前日までに降っていた雪が、午前中から出ていた陽射しのおかげで、午後には路面からだいぶなくなっていた。

天気もよかったので、正月2日に走ったとき以来、久しぶりに外に出て歩いてみることにした。

歩くこと自体なんだかぎこちなくて、1㎞ほどでなんだか体の重さを感じたのであった。

 

ひと休みしようかと思ったところに、たくさんの黄色いつぼみをつけた木があるのが目に入った。

おお、これは、

ロウバイではないか!

わが家の庭のロウバイは日当たりがよくないので、つぼみはあってもまだまだ小さい。

だけど、ここのは大きい。

いや、大きいだけじゃない。

よく見てみると、下の方にもう咲いている花があるのを見つけた。

雪に当たりながらも早く咲こうとしているのは、日当たりがいいせいなのだろう。

もう数日暖かい日が続けば、ここのロウバイは一気につぼみを開くことだろう。

 

再び歩き出すと、今度はふわふわの毛に包まれたモクレンの芽を見かけた。

うわあ、このふわふわ感。これまたいいねえ。

 

ロウバイのつぼみと花、そしてモクレンの芽。

春遠からじ、だなあ。

元気が出たぞ。

青空と陽射し、そして10℃まではいかないとはいえ、暖かい。

久々に外に出て歩くのは、こんなに気持ちがいいものなのか。

その距離は3㎞ほどでしかなかったが、腰痛からの快復、春の兆しにうきうきした気分になりながらの散歩であった。

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表紙絵とタイトルにひかれて ~「図書館ホスピタル」(三萩せいや著;河出書房新社)を読む~

2024-01-16 16:07:53 | 読む

なぜこの本が、図書館の「あけましておめでとう」コーナーに展示されていたのかはわからないが、表紙絵の女の子と目が合った気がした。

丸っぽい顔に大きな瞳が可愛い…。

そうだ、少年時代好きだったのはこんな感じの女の子だったな…。

一瞬遠い目になり、昔を思う…。

書名に目をやれば、「図書館ホスピタル」という。

図書館病院?
これまた気になるタイトルの小説だ。

帯の部分には、「元気だけがとりえの悦子が就職した、不思議な噂の立つ図書館。悩みを抱える利用者さんに今日も『元気』を届けます。 本のお薬、処方します」と書いてあった。

ぱらぱらとめくってみると、本章の始まりのページには、

『元気があれば何でもできる』

かの有名なプロレス選手が言った言葉で、プロレス好きだった亡き祖父の口癖だった。

という文章から始まっていた。

内容的に重くなさそうだし、楽しそうだから読んでみようか、と借りてきた。

 

本のタイトルからすると、この本を読めば元気が出るよ、と司書の人が推薦する本を、借りた人が読んで元気になる、というような短編集かと思ったら違っていた。

登場する主人公悦子は、大学を卒業するときの就活がうまくいかず、図書館に勤めるようになる。

何も知らなかった図書館や本のことを知りながら、仕事上でも人間的にも成長していく、というような話であった。

ストーリーの進展に、主人公が読んだ本からの学びをうまく重ねていた。

一例をあげると、

 

ふと、以前、凪原さんに薦められて読んだ本、「星の王子さま」に出てきた一節を思い出した。『肝心なことは目に見えない』。

(略)

本のページを先に先にと読み進めることは、発見があって楽しいもの。人間関係も同じなんじゃないかな、と思った。

 

そんなふうに、本や読書にうとかった主人公が、その楽しさに目覚めながら、仕事や人生に大切なことを知っていく。

 

「ええとね。本ってさ、ページをめくっていかないと先は読めないじゃない?どんな内容かは、人から聞いたり、あらすじとか見れば分かるかもしれないけど、でも、自分で読んでみないとその本に実際に何が書いてあるか分からないじゃない?仕事もさ、同じじゃないかなって……とりあえずやってみないと、やり甲斐なんて見つからないんじゃないかって思うんだ」

 

主人公悦子が語るこの文章に、すべてが表れている。

内容的に、ティーンエイジャーや働き出した若い人たち向けの本だなと感じながらも、この会話文には、そうだよ、私自身も仕事で様々なことを経験しながら得てきたのだよなあ、と思った。

そして、やるからには、自分なりの思いをもって前向きに進んでいくことによって、道は開けてきたのだ。

 

深刻にならずに、サラサラっと読み終わった。

この本が、「あけましておめでとう」コーナーに展示されていた理由はやっぱりよく分からなかった。

新年、前向きな気持ちでがんばっていこうね、ということで飾ってあったのかな。

それとも、図書館に勤めている方々が、希望をもって仕事をしているよ、ということを知ってほしくて並べたのかな?

まあ、いいや。

表紙絵の女の子と書名にひかれて借りたわけだけど、期待どおりの(?)清々しさに会えた本だったのだから。

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「冬の喝采」(黒木亮著;講談社)には、自分の故郷とつながるところがあった

2024-01-15 20:47:13 | 読む

「冬の喝采」に関することを書くのも、これで3回目。

 

メディアに自分の住んでいる場所や訪れたことのある場所が登場すると、どういうわけかうれしさを感じるものだ。

「知ってる~」と言いたくもなるが、知ってるから何だ、と言われればそれまでなのだが。

2日前には、それが自分の学生時代の思い出につながるということで、「冬の喝采」から引用して紹介した。

その際、「この本を読んでよかったことが、実はもう一つある」と書いた。

今日は、そのことについて書いておきたい。

「冬の喝采」には、著者が大学3年生及び4年生の11月に、ある大会に出るために訪れていた場所がある。

そこは、なんと、高校時代までの私の人生にとてもかかわりが深い、故郷の地だったのだ。

知っている人物も登場していた。

その文章たちを挙げて、記しておきたい。

 

▶著者が大学3年生のとき

新潟県北蒲原郡中条町に来ていた。県北部の日本海に面した町である。人口は三万人で主要産業は稲作(コシヒカリ)。

新潟県二〇キロロード選手権に出場するためである。

昨晩は、選手全員で町の村上屋旅館に泊まった。

(略)

熊倉さんの大会も今年で三回目になりました。花を添えられるよう、瀬古だけじゃなく、ほかの選手も好記録を期待してますということです」

熊倉さんというのは、六十四年の歴史で、唯一の女性部員である。現在は、新潟陸上競技協会の幹部で中条町長夫人。この大会を中心になって運営している人だ。年齢は五十歳くらいで、現役時代は投擲の選手だった。早稲田のチームは第一回から大会に参加している。

(略)

東の方角にある櫛形山脈(標高二〇五二メートル)の紅葉した山並みから、朝日が差してきていた。西の方角約7キロメートル先は日本海で、空は遮るものがなく、すっきりと広い。

 

大会には、約五十人のランナーが参加した。早稲田が最多の十九人で、大会の盛り上げ役だ。駒沢大学からは、大越正善と阿部文明の二人。多いのは、協和ガス、東北電力、新潟大学といった地元の選手たちだ。

スタート・ゴール地点は、中条町総合グラウンド

前夜の雨で、土のトラックには水が残っていた。周りは草地で、近くに、協和ガス化学工業のMMAモノマー(樹脂原料)製造工場があった。

 

▶大学4年生のとき

午後一時十九分上野発の特急列車『とき』に乗って新潟に行き、羽越本線のローカル列車に乗り換え、中条まで来た。夕方、宿泊先の村上屋旅館に着いた時は、熊倉重さん(競走部唯一の女性OBで中条町長夫人・新潟県陸協普及部長)の家に夕食に行っていた。

 

ここに出てきた北蒲原郡中条町は、現在「胎内市」となっているが、実は、私の生まれ故郷なのである。

だから、文章に出てきた「村上屋旅館」や「協和ガス化学工業」、「櫛形山脈」などは非常に懐かしい名前だ。

自分が、小・中・高と過ごした場所だけに、今でも、昔見た風景としてそれらを思い浮かべることができる。

 

文中では、櫛形山脈が「標高二〇五二メートル」と、ものすごく高い山として紹介されているが、これは誤りだということを指摘しておきたい。

実際は、南北約14kmしかない日本一小規模な山脈として有名であり、最高峰の櫛形山でも標高は568mしかない。

子どもの頃から、毎日そんな櫛形山脈を見て育った私であったから、ちょっとこだわる。

 

中学3年の頃には、当時の友だちの家の近くに協和ガス化学工業の工場があった。

そこの体育館に行って、友だちと卓球をして遊んだことが何度もあった。

 

何度か出てくる、町長夫人の熊倉重さんは、単に中条町長の奥様というだけではなく、高校の教師をしていた。

私の高校2年生時代、世界史の先生はこの熊倉重先生であった。

その授業の仕方は、大学の講義そのものと言ってよいものであった。

歴史上のできごとを、まるで物語を語るように、立て板に水のごとくひたすらにしゃべり、板書も理解を助けるものではなく、人物名や出来事などがなぐり書きであった。

生徒たちは、教科書に書いてないことをたくさん聞かされ、何が重要な出来事なのか、何をノートするかなど、自分で判断しなければならず大変だった。

だけど私は、世界史の授業は嫌いではなく、むしろ興味が持てて好きであった。

だから、大学受験の教科には世界史を選んで勉強したのだった。

熊倉重先生は、陸上部の顧問で、東京オリンピックでは審判員として参加したのだということを、周囲から聞いてはいたが、早稲田大陸上部で投擲種目をやっていたとは知らなかった。

しかも、64年の競走部の歴史で唯一の女性部員だったとは。

あの頃もっぱら女傑的な存在だったが、そのエピソードはさすがと言いたくなる。

 

そして、阿部文明氏(当時駒澤大)の名前が出てきた。

この年の大会では、瀬古利彦氏に次いで2位だったと書いてあった。

彼は、駒澤大学卒業後、NECホームに所属し、びわ湖毎日マラソンで2度優勝したり、アジア大会で銀メダルとなったりした、名ランナーであった。

高校時代3年の秋に、私は、体育祭の1500m走の種目で阿部氏と共に走ったことがある。

この種目は、学級代表が1人ずつ出場して走るのだが、私はその一人だった。

前年度県中学№1で、私より2学年下の1年生だった阿部氏は、もちろん学級代表だった。

最初の2周くらいは、2年生の野球部のエースが先行したので私も後について行ったが、3周目で、3番目に付けていた阿部氏がスピードを上げて前に出た。

無理して1周くらいくっついて行った私だったが、その後は再び野球部のエースにも抜かれ、7周半走ってゴールする頃には、半周以上離されていた。

甲子園目指して毎日10㎞走っていたという野球部のエース君が2位で、私は3位となった。

たった1度のレース同走であったが、「あの名ランナー阿部文明氏と一緒に走った」という経験は、高校時代のというだけでなく、人生においてもいい思い出として残っている。

なお、阿部氏は、競技生活終了後、胎内市に帰って暮らしている。

 

まだ上越新幹線が開通していない当時は、特急「とき」に乗っても、上野から新潟まで4時間かかった。

新潟から白新線や羽越本線に乗り継いで1時間かけないと、中条には着かなかった。

そんな時代に、著者や瀬古氏たちは私に身近なところまで来ていたのかと感激(?)しながら読んだ「冬の喝采」でもあった。

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新潟県チームの健闘と小海遥選手の活躍と ~都道府県対抗女子駅伝2024~

2024-01-14 18:07:34 | 新潟

今日は、都大路を走る都道府県対抗女子駅伝が行われた。

去年は28位と、久々の20位台でゴールと健闘した新潟県女子チーム。

今年も2年連続の20位台を目指す、との目標だった。

そうはいっても、去年のチームには小海遥選手がいて彼女が第1区区間賞の走りがあったからこその20位台だった。

今年、残念ながら小海選手は、新潟県チームからの出場ではない。

宮城県チームの選手としての出場だった。

 

絶対的なエースを欠いて、新潟県の20位台は難しいのではないかと予想された。

ただ、東日本女子駅伝で新潟県チームは、10年ぶりの8位入賞を果たしている。

3000メートルで新潟県高校記録を持つ高2の橋本和叶選手(新潟明訓高)が1区を走る。

彼女は、暮れの全国高校駅伝でも1区7位と好走したから、スタート次第で目標の順位に手が届くかもしれない、と期待した。

 

スタートの号砲が鳴ると、橋本選手は積極的に前の方でレースを展開した。

だが、有力選手が多い1区の後半はずるずると下がらざるを得なかった。

粘ったがトップと1分12秒差の26位。

これは、積極的に行った結果だから、仕方がない。

それでも、2区の村山愛美沙選手が踏ん張って区間20位で、順位も20位に上げた。

3区の中学生田中優奈選手も区間20位と好走し、順位は21位。

4区の社会人は区間23位で、順位は22位と粘った。

5区の大学生は区間40位となり、順位は5つ落として27位。

6区の高校生寺木みのり選手が区間20位で、順位を3つ上げ24位。

7区の高校生は区間27位ながら、チームの順位は1つ上げて23位。

8区の中学生が区間37位となり、チーム順位は3つ落として26位となって、9区の社会人ランナーに最終の10㎞を託した。

 

この時点で、30位のチームとは1分11秒との差があったので、大丈夫かなと思いつつ、最終区間は各県つわものぞろいだから、後ろから抜いて行くランナーが何人いても不思議ではない。

はたしてどうなるか………と思いつつ、特設サイトの速報に目を凝らすと、新潟は中間地点で28位に落ちていて、残り1㎞の地点では29位となっていた。

残り1㎞での差は16秒しかなく、最後までハラハラしながらテレビを見ていたが、なんとか29位のままゴール。

30位の和歌山より10秒早く、新潟県チームは「20位台」の目標を達成することができた。

 

地震で被災した北陸4県の戦績はさすがに芳しくなかったが、新潟はその中では最上位であった。

1区で石川県の五島莉乃選手が見事に区間賞を獲得する走りを見せたことには、思わずうなった。

被災した地元を勇気付けよう、元気付けようという強い意志を感じる力走だった。

 

そして、大会は宮城県の29年ぶり2度目の優勝となった。

その立役者となったのは、やっぱり小海遥選手だった。

小海選手は、新潟県の妙高市出身。

妙高市の中学校を卒業後、駅伝の名門校仙台育英高校に進学し、全国高校女子駅伝にも出場した。

2年生のときには、1区で区間賞を取り、仙台育英高の優勝に貢献するなど順調に力を伸ばした。

去年は、都道府県対抗女子駅伝の1区区間賞だけでなく、10000mで夏にはアジア陸上選手権金メダル、12月の日本陸上選手権では3位と、着実に実力を付けている。

今回は、「大変お世話になったので」ということで、高校時代に在籍した仙台育英のある宮城県からの出場だった。

小海選手は、9秒差の2位でタスキを受け取ると、3kmですでに1位兵庫のランナーに追いついた。

だが、追いついてから並走することを選び、1.5㎞ほど走った。

その間に2位に上がった京都のランナーが6秒差まで迫ってきていた。

中間点では、小海選手の区間順位は16位と速くはなかった。

だが、小海選手は、これなら大丈夫だと安心して走れるところまで待っていたらしく、残り5㎞となるあたりでスパートをかけた。

後半スピードを上げると、残り1㎞で区間4位に上がり、ゴール地点では2位京都に20秒の差をつけ、区間順位も2位まで上げていた。

この状況に応じた、勝つためのクレバーな走りもできること、後半になるほど強いことなどに、オリンピック・イヤーである今年の彼女の活躍が期待できそうな気がした。

 

同じ時間に行われていた、サッカー皇后杯でアルビレックス新潟レディースは、INac神戸に0-2で敗れてしまい、残念だった。

快勝を期待していたのだが…。

でも、それを補ってくれるような、駅伝での新潟県チームの健闘と小海選手の快走だった。

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「冬の喝采」(黒木亮著;講談社)を読んで、自分の思い出がつながる

2024-01-13 21:49:57 | 読む

「冬の喝采」の大学時代の4年間は、私の4年間とまったく重なる時期だ。

同じ時代、いや同じ時期に東京の空の下にいたのだなと、改めて思う。

そして、忘れていたことを懐かしく思い出す文章がいくつもあって、私の心の中でキラキラと輝いた。

だからなおさら、読んでよかったと思っている。

例えば、ということで、今回はいくつか挙げてみる。

まずは、著者の高校時代だが、私は早生まれだったので著者は私よりも1年下になるが、やはり懐かしさはある。

 

▶著者が高校3年の7月。

「むーぎわーらー。ぼうしはぁー、もぉ消ぃえぇたー…」

(略)

「田んぼの蛙はー、もう消ぃえぇたー」

聴いたこともない歌だった。のんびりした調子で、音色も変わっていて、東京の人たちはこんな歌を歌うのかと不思議な気がした。ずいぶん後になって知ったが、前年にヒットした吉田拓郎の「夏休み」という歌だった。

…そう。「前年」は、私の高3時代。同級生たちでフォークソングが好きな奴らが、よく歌っていたっけ…。その頃の私は、歌にも吉田拓郎にもあまり関心を持っていなかったけどね。

 

▶高校3年1月下旬

「えーと……じゃあ、イルカの『なごり雪』歌います」

(略)全員で聴き入った。

旅立ちと別れを歌った曲は胸に沁みた。

…イルカの歌でこれが流行った頃、私は自宅浪人生であったが、私学受験の真っ最中だったと記憶している。当時東京に住んでいたいとこのアパートに転がり込んで、受験に行ったのだった。

その一浪後は、大学入学を果たしたので、著者と学年はぴったりと重なる。

 

▶大学2年7月

この頃はまだ、中長距離ブロックで飲みに行くことがあった。入部直後にも、新宿の「セントラルパーク」というパブに、瀬古もまじえてみんなで出かけたことがある。

…「セントラルパーク」。これは、池袋にもあった。あの頃は、ロサ会館にあったと思う。池袋の大学に行っていた私は、何度か池袋店に行った。あの当時は、20歳にならなくても、大学生となれば飲酒して当然というのが世間の常識(?)だったから、たまにサークルの先輩後輩たちと行ったものだ。

 

▶大学2年8月

筋力トレーニングをやる以外は、アパートで昼寝をしたり、英語の勉強をしたり、巷で話題の森村誠一の『人間の証明』やスタインベックの『怒りのぶどう』といった小説を読んで過ごした。

…森村誠一の「証明シリーズ」が、角川映画になり、ヒットした。「人間の証明」は、ジョー山中の英語で歌う主題歌が話題となり、「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね…」のセリフはずいぶん流行ったことを思い出す。

 

▶大学2年3月

「チャーン・チャ・チャーン、チャーン・チャ・チャーン…」

ジャージー姿の寺内が、アントニオ猪木の顔真似をしながら、猪木のテーマを歌い出した。

…言わずと知れた、「猪木ボンバイエ」。盛んに猪木が異種格闘技戦を繰り広げていた頃だった。今も、この曲を聴くと元気が出てくる私だ。

 

▶大学3年5月

振り返ると、瀬古だった。水色のジャージーを着ていた。

「ちょっと喫茶店いこう、喫茶店」

駅前の「ルノアール」という大きな喫茶店に連れていかれた。

…「ルノアール」は、喫茶店のチェーン店だった。ちょっと大きい駅周辺には必ずあって、入りやすかった。池袋にもあって、サークルでよく利用していた。コーヒー1杯300円で、あの頃は、他店と比べて安いわけではなかったと記憶している。

 

▶大学3年7月

その夏は、とりわけ暑くて、長かった。

ラジオをひねると、矢沢永吉の「時間よ止まれ」がよく流れていた。資生堂の夏のキャンペーンソングだ。

…あの頃は、資生堂とカネボウは、春・夏・秋と、キャンペーンソングを対抗するようにして商品を売ろうとしていたっけ。ちなみに、同時期のカネボウは、サーカスの「Mr.サマータイム」であった。他の時期は、柳ジョージ&レイニーウッド「微笑の法則」対桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、竹内まりや「不思議なピーチパイ」対渡辺真知子「唇よ熱く君を語れ」などが印象深い。

 

▶大学3年9月

芸能欄に、アイドル歌手の木之内みどりが、作曲家の後藤次利と失踪し、芸能界を引退する見込みだと書かれていた。わたしと同い年で、細面できれいな女性だったので、自分には関係ないが、何となくがっかりした。

…そんなこともあったなあ。木之内みどりは、歌は上手くなかったけれど、それがかえって魅力的だった。「横浜いれぶん」はとても好きだったし、「硝子坂」はその後高田みずえが歌ってヒットした。

 

▶大学3年1月

昨日、ラグビーの日本選手権で、新日鉄釜石が24対0で日体大に勝った。

…この試合を、私は大学の同じゼミの仲間たちと一緒に見に行った。黒いジャージの日体大が、松尾率いる赤い釜石にコテンパンにされたのを覚えている。1月15日に行われる決勝は、3度見に行った。毎回新日鉄釜石の優勝。その最強の時代であった。

 

▶大学3年2月

頭の中で、「のーんびり行こうおーよ、おーれぇたちはー」と鈴木ヒロミツが歌ってヒットした、モービル石油のコマーシャルソング(昭和46年)を歌いながら行った。

…「車は、ガソリンで動くのです」という決めゼリフもあったなあ。「モービル石油」も今やENEOSに吸収されてしまって久しい。

 

▶大学4年11月

夕暮れの迎賓館の周回コース(1周約3.4㎞)を走りながら、太田裕美の「九月の雨」のメロディーを頭の中でリフレインしていた。

…「September Rain,Rain」のくり返しが特徴的な歌だった。あの当時、ラジカセで自分の好きな歌を録音したものだ。私は、この曲を録音した後、入れていたカセットテープを間違えていたことに気づいたことがあった。もっと気に入って大切にしていた内容の歌が入っていたのに…。この歌を聴くたびに、「ああ、しくじったなあ…」と思い出すのである。

 

こんなふうに、学生時代の自分の思い出を呼び覚ますのに十分な文章にたくさん出合えた。

著者は、その時代を走ることに費やしたわけだが、私自身は…???

まあ、とりあえずこの本を読んだから、いろいろな懐かしさを感じられたので、細かいことは言わないでおくことにしよう。

 

この本を読んでよかったことが、実はもう一つあるのだが、それはまた次の機会にしよう。

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「冬の喝采」(黒木亮著;講談社)を読む

2024-01-12 20:23:11 | 読む

この本を読んでみたくなったのは、12月30日の新潟日報紙の「日報抄」で紹介されていたからだ。

近づいた箱根駅伝の話題で、題材にした小説が多いといい、池井戸潤の「俺たちの箱根駅伝」や三浦しをんの「風が強く吹いている」という作品にふれていた。

そのほかに紹介されていたのが、黒木亮の「冬の喝采」という小説だった。

著者は、経済小説家として有名だが、大学時代は競走部に所属していた。

そして、2度箱根駅伝に出場した。

1979年の大会では、あの瀬古利彦からたすきを受けて走ってもいたとも書いてあった。

 

三浦しをんの「風が強く吹いている」は、過去に読んだことがあったし、池井戸潤の「俺たちの箱根駅伝」は今後単行本として刊行が予定されていると知ったから、いつか読みたいと思った。

気になったのは、「冬の喝采」である。

今までこの本に関しては、聞いたことがなかった。

本書は、自伝的長編とも書いてあった。

瀬古利彦は、1956年7月生まれ。

学年でいえば、私と同学年になる。

同じ時代のヒーローの一人である。

モスクワ五輪のころ絶頂期だったが、残念ながら、日本のボイコットによって参加できず不運だったが…。

著者が、その瀬古からたすきを受けて走ったということに興味を持ち、本書を読んでみたくなった。

 

最寄りの図書館に本書があるか調べてみたら、残念ながら、なかった。

県立図書館にはあるようだが、そこまで行くのは遠いから、借りるのはあきらめた。

新たに本を購入して増やさないようにしたいと思っていたが、仕方がないから、アマゾン等をチェックしてみた。

今は、講談社文庫や幻冬舎文庫で、上下巻2冊の文庫本で売られている。

だが、古本の単行本だと1冊ですむ。

結局送料の方が高いが、古い単行本で注文をした。

正月が過ぎて、手元に届いたのは、620ページを超える分厚いハードカバーの1冊だった。

 

本書のプロローグは、瀬古からたすきをわたされる駅伝のシーンから始まっていた。

そのプロローグから、描写が細かい。

風景から、周囲の風景、走るときの自身の身体の様子、心の有りようなどが非常に詳しく書かれていた。

たすきを受け取ってから、任された区間の疾走の記述が終わらないうちに、本章に移っていった。

本章は、著者が中学3年だったときから始まる。

そこから、走ることについて、著者の体験が語られていく。

登場する人物が、すべて実名で語られていくので、これはまさにドキュメンタリー小説であった。

中学・高校時代から、大学時代の終了と共に競技生活を終えるまでのことを、時間を追って描いている。

だから、プロローグの最後の27ページで箱根駅伝を走っている続きのシーンは、第9章の406ページまで、380ページも後になるのである。

ただ、ラストのエピローグでは、走ることに関してだけでなく、著者の出生の真実に関することも書かれていた。

この本は、自伝的長編というよりも、長編の自伝と言った方が正確だと思った。

 

読み終えて、というより読んでいるときに感心したこと、驚いたことは3つほどあった。

1つめは、著者の選手生活は、とにかくけが・故障との戦っていたということだ。

高校2年から大学2年まで、けがで満足に走れなかったなかでも、自分にできることをやって走れるようになりたいと思ってがんばっていたということ。

そして、走れるようになった大学2年以降もけがや故障が頻発しながら、箱根駅伝に2度の出場を果たしたのは、なみなみならぬ努力があったからだと分かる。

日ごとにどんな練習をしたかも、細かく書かれている。

そのけがや痛みの程度やその変化の様子も、非常に細かく表現されているのだから、すごいものだ。

高校時代にせよ大学時代にせよ、毎日の細かい練習内容がきちんと書かれていることは、きっと練習ノートを欠かさず書いていたからなのだろう。

とにかく日々起こる細かい描写に感心した。

 

2つ目は、あの瀬古を育てた中村清監督の人物像についての驚きである。

名伯楽と言われたが、傍若無人なその実情が描かれている。

暴力こそ振るわないが、かなり頑固で無茶苦茶な物言いに、部員たちが相当振り回され困った話が包み隠さず披露されている。

横柄で独善的な態度に、読んでいて腹が立つほどだ。

だが、こういう人はあの頃たくさんいたなあ、と思う。

様々な理不尽さを突き付けられながらも、耐えるしかない時代だったな、ということを思う。

著者は、その折々の現実と自分の気持ちを偽らずに淡々と書いている。

中村監督の実像に迫ることができた。

 

3つ目は、エピローグで紹介されたことが驚きの実話であったことだ。

養子として育てられた著者が、競技をやめた後、実父も箱根を走ったランナーだったことを知る。

読む方にとっても、大きな驚きであった。

実の親と思っていた父母が、養父母であり、自分が養子と知ったのは大学に入るときだったが、実父母を知ろうとしたのは30歳のときであった。

実父も箱根を2度走っており、その区間が著者と同じ3区と8区というのも不思議な縁であった。

最後は、1度だけ実父の家を訪ねたときの様子が描かれ、小説は終わりとなっている。

人生のつながりと運命の不思議さに、驚くやらうなずくやらであった。

「事実は小説より奇なり」というが、奇なる事実の小説であった。

 

ハラハラドキドキの物語とは違って、淡々と著者の体験が綴られている。

こういう事実の中で生きていたのだなあ、と共感をもって読んだ。

話のあちこちに、当時起こったことやエピソードがはさみ込まれている。

それらは、私と同じ年の生まれである著者に、同時代を生きていたのだなあと親近感を抱かせる。

自分の生活に身近な場所も出てきていたりした。

そのことについても書いておきたいのだが、ちょっと長くなるので、後日述べることにしたい。

ともかく、買ってまで読んだのは、正解だった。

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