早朝5時に家を出た。
藤原宮跡の蓮の花は、よく澄んだ空の下で、美しく開花している。
まず、今回はこの宮跡を近く、または遠く望む山々と蓮の花を全体的に写したのを集めてみた。
古代の宮の人たちは、これらの山を眺めて暮らしたのだろう。
そんなことに想いを馳せ乍ら・・・
左から金剛山 葛城山 手前は畝傍山
耳成山
宮跡の柱列と畝傍山
手前・畝傍山 その背景・葛城金剛の山の連なり
天の香久山
二上山
遠く生駒山も望める
早朝5時に家を出た。
藤原宮跡の蓮の花は、よく澄んだ空の下で、美しく開花している。
まず、今回はこの宮跡を近く、または遠く望む山々と蓮の花を全体的に写したのを集めてみた。
古代の宮の人たちは、これらの山を眺めて暮らしたのだろう。
そんなことに想いを馳せ乍ら・・・
左から金剛山 葛城山 手前は畝傍山
耳成山
宮跡の柱列と畝傍山
手前・畝傍山 その背景・葛城金剛の山の連なり
天の香久山
二上山
遠く生駒山も望める
今日で何回来たのだろう。
もう咲いたかしら・朝になると上野公園へ車を走らせていた。
少しずつ咲いてきてはいたが、「おはよう」と頭の上から声が下りて来るような高さのヒマワリが道路に近いところで咲いていたので、私も「おはよう・待ってたんだよ。」とシャッターを切った。
車を停めようとした時、今走ってきた国道に沿った和歌山線を、電車が五條向いて登って行くのが見えたので、すぐシャッターを切ったが、そんなに手早くできずに電車は通過してしまった、後の祭りの写真だ。
そのうち、花がいっぱい咲いて、ゆっくりと花と向き合えるようになったら、電車の時刻を見て、粘ってみよう。
青空に白い雲、連日の高温注意報だけど、このように外に出てこられるのは気分が晴れ晴れする。
今回の台風は沖縄方面を随分荒している。先日の台風は、直接の被害はなかったけれど、県内の天川村に不安な要素を残して、土砂崩れの避難がまだこれからも続きそうだ。今年は立て続けに自然災害の不安を台風が、運んで来る。
ヒマワリの開花の期間は短いとのことで、次々と咲く花でないから、段階的に植えているとのことで、暑さに負けそうな時、くじけそうな時、にこやかに咲いた花と出会いに行こう。
後に続けとばかりに背高のっぽのヒマワリは、今朝とても元気だった。蕾を従えているので、これからはもっと一面に咲くことだろう。
「準備 OK! 明日は咲こう、お姉さんたちのように。」
今日も高温注意報が出てたけど、その暑い太陽の光を浴びて、咲く条件はそろったったわけ。
「また見に来てね。公園の運動場では元気なスポーツ少年たちは、汗を流して頑張っている。」
そんなヒマワリたちの声を聴きながら、朝の公園を後にした。
明日はもっと沢山咲いているだろうと思いながら・・・
庭に面した2部屋の和室の廊下の隅から、音楽が聴こえてくる。
哀愁を帯びた八尾の風の盆のメロディーが、流れ八尾の風の盆の世界へ、誘われる。
私は実際行ったことがなく、テレビなどの映像で知るのみだったが、影絵の黒い踊り姿に、色彩を加えた形で、座敷の舞台での踊りが生き生きと伝わってくるようだ。
これは、Kさんご夫婦が風の盆に行かれた時の思い出を影絵に再現された素敵な作品だ。
越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了する。おわら風の盆が行なわれる3日間、合計25万人前後の見物客が八尾を訪れ、町はたいへんな賑わいをみせる。2006年(平成18年)に、「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されている。
小さい画像をクリックして大きい画像にしてご覧ください。
風の盆の感動をこのような形で、お庭の灯籠鑑賞に合わせて、見せて頂けたことに、2度目であったが、最初の時の感動を更に大きくしたような素晴らしい演出に心を打たれた。
もう一つの座敷の影絵も実に素晴らしい。
私は勝手にこちらの方は「ふるさと幻影」という題をつけてここに描かれている、何とも言えない懐かしさ、優しさ、温かさがご夫婦の生き方そのものであるような気がする。
初めてこれらの作品を見せて頂いてから、もう何年かたっているが、今この作品と出会ったような新鮮さで眺められる。
大きい画像でどうぞ!。
上の2枚の画像は、庭木を入れて写してみた。障子の向こうの影絵と、お庭の植木と一体となって
ふるさと幻影が幻影でなく実像としてK邸の座敷とお庭を、このように開放して見せて頂いた今年の夏の灯籠の灯りは、心に灯りをともしてもらえたようで嬉しいことだった。
誘ってくださったタカコさんにも感謝・感謝である。おしまい
昨日は、色彩の華やかな灯籠を集めた。たくさん撮った写真の整理を「彩」をテーマに集めてみるのも楽しかった。
今度は、素材は牛乳パックとか、簾用のものを用いた置き灯籠で、華やかさそのものはないけれど、蝋燭の炎で偶然できる光と影の面白さを画像の中に見つけた。
灯籠の置かれた場所によって、芝生に映る光が朧になる。その朧な斜めの線が庭に映える。
真上から見るとその放射状に広がっていく、光と影が微妙なアートの世界を創りだしていく。
この燈籠は、陶器のガーデンテーブルの上に載って、上下二つの濃淡の灯りが見えるのも面白い。
同じ牛乳パックの灯籠でも、砂利石の上にあると、一つ一つの小石が色によって灯りの反射の受け取り方が違って、灯籠の置場全体をほのかに照らすような感じである。
細かい簾の目からほのかに漏れてくる灯籠の灯りは、まだ電燈というもののなかった、古代の住み家を彷彿とさせて想像の世界が広がってくる。光と影が織りなす幽玄の趣がある。
お庭のあちこちの配置の工夫によって、手作りの工作から全く独立した、夏の世を楽しませてくれる灯籠の灯りとして訪れる人を心地よく迎えてくれる。
庭木の植え込みの中にそっと置かれたこの燈籠は、周りの植物がまるで演出したようにいい影を作っている。
「kさんのお家の灯籠、14日の夜に見せてくださるので、行きませんか。」タカコさんからお誘いのメールを頂いて、大喜びでこの日を待ちかねていた。午前中葛城山麓のヒマワリを見に行った日だったが、日中の酷暑は日没とともに、涼しい風が夜の帳を時々吹き抜けていく絶好の灯り鑑賞の夜になった。
もうかなり以前からご近所の方や子供さんたちも、参加して行われていた趣のある催しだったとのことだが、私が見せて頂いたのは、もうお終いになる2年くらい前からだったのだなぁと、つくづくこの夜のお知らせがありがたかった。
お庭に回るまでの玄関先で、まず迎えてくれた吊灯籠。四面に描かれていたのだが、写す位置の関係から三面しか写真に頂けなかった。
それぞれの場面が、灯りを落とした行く先々に心安らぐ、仏様のお迎えもあれば、どこからか妖怪のユーモラスな場面への誘いもあるような和紙に辿る筆の流れも、描いた人の絵心を見させてもらっているようで、惹かれる。
全ての灯りを落としてくれているので、お庭のあちこちから現れる、灯籠の灯りが闇の中に浮かんで、その色彩が蝋燭の火に浮かび上がる。
カメラを変えて間もない時だったので、夜景の写し方も十分把握していない状態の私に、この美しい彩が写し撮れるのか、手持ちでブレはしないかととても気がかりだった。しかし折角来させていただいたいいご縁を、とにかく一つの灯籠も見逃すまいと、灯りを求めて歩いた。
これらの灯籠の背景にある、ご近所の繋がりについても 作品作りの相談や、制作の過程に今、大切にしていかなければならない、絆がここに関わってこられた活動に、見えるようで、学ばねばならないことが沢山あるように感じる。
子供たちの生き生きした、物づくりの楽しい時間の流れもあったろう。
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材料のほとんどが、牛乳パックや、廃材の生まれ変わりだとのことで、あまり最近しなくなった、切ったり、貼ったり、削ったりといった手先を使う細かい作業の結果が、このように夏の夜を彩る、優雅な空間を創り出している。
大人は子供に戻り、子供は、成長過程のある時期に、近所の友だちや大人の人たちと、共有したこんな素敵な経験と美しい灯籠の夜のあったことは、心の宝物だと思う。
上の2枚は広い庭の各所に、置かれて浮かび上がった灯籠である。
その上の一つ一つの灯籠と、重なったのもあるけれど、庭園灯を消した中に、この置き灯籠だけが浮かび上がっているのは、稚拙な写真では表現しきれない素敵な灯籠のあるお庭である。
いくら見ていても観飽き足りない、楽しい夏の夜お庭の灯籠の再現と、ゆったりした時間を持たせてくださったKさんご夫婦に感謝でいっぱいである。感動の作品を後、多分2回続けたいと思っている。