迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ああ、ナースチェンカ! とにかくナースチェンカ!

2018-12-18 22:30:48 | 浮世見聞記
中学生時代、あまりにワケのわからない文章に三分の一も読まないで放り出したドストエフスキーの「白夜」を、それから数十年を経た現在、再び挑戦して今度こそ読了する。


再挑戦を決めたキッカケらしいキッカケは、無い。

今月に入って、ふと「読みたいな……」と思った、単純にそれだけである。

ただ、中学生のときに放棄したことが、いらい私の記憶の奥底に引っ掛かってゐたことは、事実である。

私のこれまでの読書歴で唯一、完読“できなかった”本だからだ。


あのとき、美しい表紙絵に惹かれて購入した角川文庫版と同じ物を──もっとも「白夜」の文庫版は角川書店からしか出ていないはずだ──古本で手に入れ、主人公の空想家の、感嘆符だらけの文章に再び挑む。

やはり、この空想家の青年がナースチェンカを相手に叫ぶセリフは、抽象的に過ぎてしかもまわりくどく、読んでゐてイライラしてくる。

人生経験の無い中学生には、ワケがわからないのも道理なれ。

しかし、現在の私には、とりあへず字面だけを強引に読み押していく術を、心得てゐる。


やうするに、空想と現実は宿命的に相容れないもの──さういふ話しだ。

青年は決定的な空想家であるのに対し、ナースチェンカは恋人といふ現実世界の人物をキッカケに、向こうの世界へと戻れる理性を備へてゐる。



これが正しい読解なのかどうかは、わからない。

しかしこれが、文章に始終漂ふ霧を自分の手で払ひのけながら読み進め、裏表紙を閉じたあとに抱いた私なりの印象である。



今回せっかく手に入れたこの一冊を、再び手放すつもりはない。



いづれ私は、拾ひ読みをするだらうから。





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