孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

カンボジア特別法廷  裁かれるポル・ポト政権の狂気

2012-02-25 20:35:34 | 東南アジア

(11年12月5日 カンボジア特別法廷に出廷したヌオン・チア元人民代表会議議長 “flickr”より By Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia http://www.flickr.com/photos/krtribunal/6458550559/

【「長い時間を経て、ようやくここまできた」】
ポル・ポト政権(1975~79年)下のカンボジアでは、飢餓や過酷な労働、処刑などによって人口のほぼ4分の1にあたる約170万人~200万人が死亡したとされています。 

そのポル・ポト政権の犯罪行為を裁くカンボジア特別法廷においては、これまでも何回か取り上げてきたように、元トゥールスレン政治犯収容所長カン・ケ・イウ被告については結審したものの、政権責任者の立場あった幹部4名については公判がまだ開始したばかりです。

なお同法廷に起訴された唯一の女性幹部で、ポル・ポト政権の「ファーストレディー」と呼ばれていたイエン・チリト元社会問題相は、認知症のために公判に耐えられないと判断され、判事らはチリト被告の釈放を命じており、政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表会議議長、ナンバー3のイエン・サリ元副首相兼外相、キュー・サムファン元幹部会議長の3被告の裁判が先行しています。

カン・ケ・イウ被告は収容所長という目立つポジションにあったとは言え、権力構造的には末端にすぎません。
権力中枢にあった幹部4名の裁判なしには、国民を死に追いやったポル・ポト政権の狂気の真相を明らかにすることはできません。

****カンボジア、ポル・ポト派法廷 「暗黒の歴史」なおベール****
 ■「犠牲者に正義を」見守った遺族
カンボジアのポル・ポト政権が1979年に崩壊してから33年もの歳月を経て、大量虐殺に対するひとつの判決がようやく確定した。カンボジア特別法廷の最高裁が3日、元トゥールスレン政治犯収容所長カン・ケ・イウ被告(69)に下した、最高刑である終身刑の判決に、「粛清」を免れた生存者や犠牲者の遺族は沸いた。だが、大虐殺という「暗黒の歴史」はなお、ベールに包まれている。

現地時間の午前10時(日本時間正午)から開かれた判決公判。日本の野口元郎氏ら7人の判事が入廷し、判決文の朗読が始まった。そして最後にコン・スリム裁判長がカン・ケ・イウ被告に向け、口を開いた。
「被告の犯罪は、人類の歴史において最悪のものであることに疑いはない。よって終身刑を科す」
同被告は身動きもせず、聞き入っていた。

法廷の内外では、わずかな生存者や犠牲者の遺族ら数百人が、判決の行方を固唾をのんで見守った。現地からの報道によると、夫や両親をはじめ家族19人を失ったキム・フイさんは「犠牲者についに正義がもたらされ、心の安らぎを覚える」とコメント。「長い時間を経て、ようやくここまできた」(28歳の男性)という声も聞かれた。

ポル・ポト政権が、ベトナム軍の侵攻により、政権の座から一掃されたのは79年1月のこと。その後、カン・ケ・イウ被告がカンボジア特別法廷に起訴されたのは2008年8月になってからで、判決確定までさらに3年半を要した。

公判では多くの証人が出廷し「つめはぎや電気ショック、水責めなどで自白を迫られ、故意の殺人、拷問、非人間的な拘禁が行われた」という実態を証言している。カン・ケ・イウ被告は「収容所はポル・ポト(元首相、故人)が発案し、ソン・セン(元副首相、1997年に殺害)が実行し、ヌオン・チア(元人民代表議会議長)が管理した。責任は最高幹部にあり私にはない」と抗弁した。

そのヌオン・チア被告(85)ら元最高幹部の4被告は、高齢のうえ、人道に対する罪などの容疑を否認し続けている。
同国のソク・アン副首相は3日、「わが国と全人類にとり歴史的な日だ」と初の判決確定を称賛したが、「革命」と「粛清」の名の下に200万人ともされる住民らが虐殺された真相の解明は、阻まれたままだ。【2月4日 産経】
***************************

カン・ケ・イウ被告の「収容所はポル・ポト(元首相、故人)が発案し、ソン・セン(元副首相、1997年に殺害)が実行し、ヌオン・チア(元人民代表議会議長)が管理した。責任は最高幹部にあり私にはない」という主張は、もっともでもあります。彼が罪を免れる訳ではありませんが。

【「路上にも学校にも子どもの姿はなく、パゴダにも人の姿はない。市場も、笑い声も、何もなかった」】
カンボジア特別法廷に、秘密のベールに包まれていた(クメール・ルージュが世界の注目を浴びるようになっても、その指導者がポル・ポトであることすら海外では知られていませんでした。)最高指導者ポル・ポトとの会見を実現した米国人記者が出廷し、当時の録音記録などを提出するそうです。
ポル・ポトが死亡している現在、彼が何を目指していたかを知る一助になれば幸いです。

****70年代にポル・ポトと会見した米国人記者、カンボジア特別法廷で証言へ****
1970年代後半、カンボジアの実権を掌握していた共産主義勢力ポル・ポト派(クメールルージュ)の招待で同国を訪れた2人の米国人記者が見たものは、人気のない道や子どものいない学校、笑い声がいっさい聞こえない首都プノンペンだった。

その1人、エリザベス・ベッカー氏(64)は当時、指導者ポル・ポトとの貴重な会見を果たした。
滞在中、あらかじめ設定が決められた映画セットのような雰囲気の中でならば、写真を撮る機会は何度もあった。しかし凝縮した2週間の滞在を終えて、ベッカー氏はポル・ポト政権の「狂気」を確信するに至った。2人とともにカンボジアを訪問していた英国人学者のマルコム・コールドウェル氏は、滞在中に殺害された。

米ワシントン・ポストの記者を引退したベッカー氏は今、当時撮影した写真やポル・ポトのインタビューの録音テープを初めて公開するために、30年以上の時を経てカンボジアへ舞い戻った。同時にベッカー氏は、旧ポル・ポト政権による大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷で証言する準備も進めている。(中略)

極端な共産主義革命を推し進めたポル・ポト政権は、「農村ユートピア」を築くというスローガンの下、貨幣や宗教を否定し、都市から人を追い出し、何百万人をも強制労働に従事させた。鎖国状態にあったカンボジアの内部で進行していた事実を、世界は当時、知ることはなかった。

■見せかけで上塗りされた狂気
ベッカー氏がカンボジアを訪れたのは政権末期の1978年12月で、ベトナムのカンボジア侵攻が迫っていた時期だった。ポル・ポト派はベトナムの攻撃をかわそうと、遅ればせながらも国際支援を求めた。そこで始めたのが彼らの「革命」を肯定的に見せる広報戦略だ。

「彼らは、それまで世界から完全に自分たちを隔離していた。だから(ベトナムからの脅威にさらされて)友人なり助けなりが緊急に必要となったのだ」(ベッカー氏)(中略)

見学に訪れた農村共同体のモデル集落では、健康そうな村人たちが農作業をしていたが、それも非現実なものにしか映らなかった。「わたしは自分の目に『入ってこなかったもの』に不安を煽られた。次の角を曲がれば本当の日常が現れるかもしれない、そう思っても、それは決して起こらなかった。路上にも学校にも子どもの姿はなく、パゴダ(仏塔)にも人の姿はない。市場も、笑い声も、何もなかった」

■同行していた英国人学者は・・・
カンボジア滞在の最終日、ベッカー氏とダッドマン氏は欧米人記者として、クメールルージュ時代に最初で最後となるポル・ポトへのインタビューを行った。ポル・ポトの印象について「想像していたよりもずっとカリスマ性があり、端正だった」とベッカー氏は振り返る。ポル・ポトは2人にベトナムとの戦争の脅威について「講義」し、北大西洋条約機構(NATO)にクメールルージュを支援してほしいのだと語った。「NATOが自分の側についてくれると考えるなんて、それだけでポル・ポトがいかに死に物狂いの状況だったかが分かる」(ベッカー氏)

一方、ポル・ポト政権に好意的だったマルクス研究者のコールドウェル氏は、記者たちとは別にポル・ポトと2人きりで会見した。その数時間後、同氏は宿泊していた施設で射殺体で見つかった。この死の真相は謎のままだが、ベッカー氏は当時、宿泊施設の中で銃を持った男を見かけたという。これぞクメールルージュの狂気だと、ベッカー氏は語る。「自国民を見境なく殺りくしていた政権を相手に、なぜコールドウェル氏が殺されたのか合理的な理由を探そうとしても、それが意味をなすのかどうか、わたしには分からない」

コールドウェル氏の遺体とともに、ベッカー氏とダッドマン氏がカンボジアを離れてから2日後の1978年12月25日、ベトナム軍がカンボジアに侵攻した。ベトナム軍は1月7日までにプノンペンを掌握。ポル・ポト政権は追放された。ポル・ポトは逃げ込んだジャングルからゲリラ戦を続けたが、1998年に死去。ポル・ポト政権下での行為について裁きを受けることはないまま、最期を迎えた。

カンボジア特別法廷の裁判で、高齢となった証言者たちはしばしば、遠くなった記憶の問題に悩まされるが、ベッカー氏はまったく心配していない。「わたしは記憶に頼る必要はない。取材のメモがあり、録音がある。これは記者の有利な点だ」【2月24日 AFP】
****************************

【「こうして、愛するカンボジアのみなさんに事実を伝える機会を、ずっと待ち焦がれていた」】
ポル・ポトが死亡している現在、幹部4名のなかでポル・ポトに最も近かったナンバー2のヌオン・チア(元人民代表議会議長)の発言が注目されます。
イエン・サリ被告が、自分は一度恩赦を受けており裁かれる立場にないと主張、キュー・サムファン被告は、自分は意思決定プロセスには入らない「飾り物」の権力者だったとして議論を回避する姿勢を見せているなかで、ヌオン・チア被告は、自らの思想の正当性を訴えています。
(イエン・サリ被告の主張は法律論的には考慮されるべきものですし、キュー・サムファン被告が“対外的な顔”に過ぎなかったというのもある程度事実でしょう。)

彼らの主張については、「カンボジア便り プノンペンに移住した記者の目から見たカンボジア 木村文」(http://www.mekong-publishing.com/canbo/canbo.htm)に詳しく記載されています。

その中から、ヌオン・チア被告に関する部分を抜粋したのが以下の引用です。

****ベトナムはニシキヘビ*****
11月22日午後1時半、検察側の起訴理由の説明に対し、3被告が意見を述べる番になった。前述のように、同じように起訴理由とされた犯罪行為への関与を否定しつつも、その理由は3人それぞれに違う。法廷での闘い方にもそれは反映されていた。

最も積極的に自身の立場やポル・ポト派の思想を擁護したのは、ヌオン・チア被告だった。2時間にわたる陳述で、同派が台頭するに至った歴史をとうとうと語り、「ポル・ポト派による革命の目的は、カンボジアとカンボジア人を、ベトナムによる支配と抑圧から守ることだった」と、述べた。

「この法廷はワニの胴体しか取り上げていない」。ヌオン・チア被告は、自分で用意したのであろう、分厚い原稿を手に、なめらかに話を始めた。「ワニの胴体が動くのは、頭としっぽがあるからだ。頭としっぽを知らないで、胴体の動きが分かるわけがない」。被告が「ワニの頭」と言ったのは、おそらくポル・ポト派政権以前の国際情勢だろう。ヌオン・チア被告は、法廷以外の場所でインタビューを受けたときにも「1975年から79年のポル・ポト時代だけを見ていたのでは、何も分からない。ポル・ポト派は突然湧いて出てきたわけではないのだ」と、繰り返している。

目の病気があるから、といつも着けているサングラスではなく、この日は普通の眼鏡を着けた。「ナンバー2」として、ポル・ポト首相に影のように寄り添ってきたヌオン・チア被告は、「こうして、愛するカンボジアのみなさんに事実を伝える機会を、ずっと待ち焦がれていた」と語った。

同被告は、陳述の間、徹底したベトナム批判を繰り広げた。「1979年1月、ベトナム軍がプノンペンを陥落し、ポル・ポト派政権が崩壊したが、そもそもこれはベトナム軍による侵略であり、国際的な違法行為である。この点が正当化されてしまうのは納得がいかない。ベトナムは、インドシナ3国を支配し、コントロールしたいという野望を今に至るまで持ち続けている。ベトナムは、若い鹿の息の根を止めようとするニシキヘビのようなものだ」

陳述の最後、ヌオン・チア被告は、改めてポル・ポト派の目指したものについて語った。「私が革命に参加したのは、国と人々を守るためだった。そのために自分の家族をかえりみることなく、植民地主義との闘いに身を投じた。私たちはカンボジアを自由にしたかった。虐殺など起きない社会にしたかった。汚れなく、自立した社会を作り上げたかったのだ」。それは約10年前、まだ逮捕される前の同被告をカンボジア西部パイリンにある彼の自宅でインタビューしたとき、私自身が聞いた言葉とまったく同じだった。【カンボジア便り プノンペンに移住した記者の目から見たカンボジア(木村文)】
***************************

ポル・ポト政権がベトナムを強く意識し、その影響を恐れて極端な粛清に走った事情が窺えます。

その拘束前のヌオン・チア被告に10年間にわたって密着、何度もインタビューを重ね、虐殺の真相を執念で追った、あるカンボジア人記者のドキュメンタリーをTVで放映していました。
彼の両親、兄もクメール・ルージュの犠牲者ですが、復讐のため接近しているととられないように、ヌオン・チア被告にはそのことは伏せて取材していました。そして、ヌオン・チア被告の拘束が迫ったとき、その事実を明かします。両者の間に言い様のない時間が流れます。

****<シリーズ カンボジア 虐殺の記憶> “民衆の敵”に迫る~カンボジア人記者の記録~****
プノンペン・ポスト紙の記者、テート・サンバスは仕事のかたわら、ポル・ポト政権時代に起きた大量虐殺の真相を調べ続けてきた。サンバスの父親はクメール・ルージュの運動に加わる中で、上官にささいな反論をしただけで殺害された。その後、母親はクメール・ルージュの兵士と強制結婚させられ、失意のまま亡くなった。

サンバスはプライベートの時間のほとんどを使って、同胞の殺人を命じた上官、実際に手をくだした兵士、そして政権中枢の大物にインタビューを行ってきた。特に当時の政権ナンバー2、ヌオン・チアには、10年に渡って会い続けた。

しかし、サンバス記者の妻は、なぜ夫が家族との時間を犠牲にしてまで取材を続けるのか理解できないと言う。サンバスにとって真相を突き止めることはエネミー・オブ・ピープル、民衆の敵だった虐殺者に迫ることであり、それは両親のためだけではなく、カンボジア人すべてのためだった。【NHKオンライン】
************************

記者の問いかけに対し、ヌオン・チア被告は「国家も個人も重要だが、国家を守るためには個人を犠牲にすることはやむを得ない」と、確信を持って語っています。
「農村ユートピア」を夢見、ベトナムの影に怯えるポル・ポト政権が、“国家を守るため”に国民の4分の1を犠牲にした狂気がそこにはあります。

****ポル・ポト派No.2はまだ英雄気取り****
1975〜79年にカンボジアのポル・ポト政権下で殺害された犠牲者は、実に200万人近い。大量虐殺を主導したとされる当時の幹部らを裁く特別法廷の本格審理が先日、首都プノンペンで始まった。だが30年以上を経た今も、政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表議会議長の口から謝罪の言葉が聞かれることはなさそうだ。

「クメール・ルージュ(赤いクメール)」の名で知られた共産党政権によるカンボジア国民の大量虐殺は世界中の知るところだ。しかしチアは85歳になった今も、自分を共産革命の英雄だと考えている。
特別法廷の審理に出廷したチアは、「植民地主義と侵略行為、そして国土を奪ってカンボジアを地球上から抹殺しようとする泥棒どもの圧制から祖国を解放するために、私は家族を置いて戦わなければならなかった」と語った。
さらにチアは、ポル・ポト政権下で行われた拷問と虐殺は必要な行為だったとも主張した。

90分間に及ぶ法廷での証言で、チアは残虐行為の大半をベトナム工作員のせいにした。ベトナム軍は79年にポル・ポト政権を倒し、その後10年間にわたってカンボジアを占領した。
「同志ナンバー2」という呼び名で知られるチアは、虐殺をこんな例えで正当化したという。「人々がワニについて語るときは胴体の話ばかりして、日常生活で大切な頭や尻尾の話はしない。我々は悪い連中しか殺していない。良い奴は殺していない」【11年11月24日 Newsweek】
***************************

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする