あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

歴史に残るだけに豪快な天皇さま

2010-02-11 15:01:10 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

              

             

     写真: 蔵王堂正面にある4本の桜に囲まれて、後醍醐天皇第2皇子、

      大塔宮護良親王とわずか20人余の兵が最後の酒宴を行いました。 

 

 

18人の后妃を持ち、36人の子女・・・」う~む、さすが英雄!! 当時では当たり前(?)かもしれませんが、少子化の現代では「ご立派」と言えるでしょう。

 

 

 

写真:蔵王堂正面右手にある「後醍醐天皇導きの稲荷」道に迷った時、ひとむらの紅い雲が吉野に導きました。

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この阿野廉子(あののれんし)というお后さまについて、『太平記』では「傾国の美女」とされ、天皇の彼女に対する寵愛が天下大乱の原因になり、さらに「なさぬ仲(他妻の子)の大塔宮護良親王(もりながしんのう)を殺した」となっているようです。古今東西、(男による)歴史の認識って似ているなあ。

 

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  こうした性的エネルギーと、後醍醐天皇が真言密教を深く信仰したことは関係があるようで、愛染明王坐像(根津実術館蔵) には、月輪の左右上方に後醍醐天皇(在位131839)の宸筆(しんぴつ)と伝わる偈文(げもん)が墨書されています。いうまでもなく、愛染明王は、愛欲を肯定し、恋愛・縁結び・家庭円満などをつかさどる仏です。そのような信仰は、それまでの天皇史にあってもまさに異例中の異例と言われているのです。

 

 

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<o:p>  写真:蔵王堂正面左手にある「村上義光公忠死之所」。彼は大塔宮護良親王の身代わりになりました。</o:p>

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『異形の王権』(網野善彦、平凡社、1993)では後醍醐天皇の特異な側面をこう描いています。「目的のためには手段を選ばす、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈(ふとうふくつ)。まさしくヒットラーのごとき人物像・・・」と表現し、その特異さのひとつが、「後醍醐地震の行動の中で、天皇史上例を見ない異様さは、現職の天皇でありながら、自ら法服を着けて、護摩を焚き、真言密教による幕府の調伏(敵を降伏させる)祈祷を行った点にある」としています。

  

<o:p>写真:村上義光公のお墓は大塔地区に向かう道筋にあります。</o:p>

 

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注目すべきこととして「1329年に聖天供―大聖歓喜天浴油供(だいしょうかんぎてんよくゆく)」を行ったことをあげています。「大聖歓喜天像」は通常、象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれます。つまり「極言すれば後醍醐はここで人間の深奥の自然―セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないか」というのです。

 

写真:後醍醐天皇をお祀りする吉野神宮。墓所と同じく北を向いています。

   本殿から北を望む。

 

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<o:p></o:p>もうひとつが「後醍醐は文観(もんかん:天皇を支えた律僧の一人)を通じて、当時異類異形といわれた「悪党」「職人」的武士から「(いわゆる犯罪人)」までをその軍事力として動員し、内裏(天皇御所内部)までこの人々が出入りする事態を現出させた」ことにあります。つまりあらゆる手段を使って兵力増強を行ったということなのでしょう。

 

 

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写真:吉野神宮摂社「御影神社」「船岡神社」「瀧櫻神社」には他でお祀りされていない忠臣たちが。

 

「こうした異形の行為やそれにより成立していた王権は、当時の天皇制の深刻な危機から発生していた」と著者は背景を推測しています。 それにしても日本国にこんなに個性的で型破り、かつ精力的な天皇さまがいたとは驚きです。(続く)