団塊の世代のつぶやき

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★鉄資源の奪い合いという視点を欠く日本の古代史学界

2021年03月10日 | 誇れる日本

 島根から夥しい銅鐸が出土された時は驚いたものですが、その意味は良く分からなかったのじゃないでしょうか。
  そんな謎にも関係するような説の本が長い間埋もれていたようです。

  宮崎さんが書評で取り上げてくれています。どうやら日本の歴史学者にとっては余り触れたく無い説のようです。相変わらず日本の歴史学はおかしな世界のようです。

  只、この中で、製鉄が百済からとの説がありますが、これはどうなんでしょう。こんなのを知ったら又Koreaが五月蝿いことでしょう。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」より    令和三年(2021)3月2日(火曜日)弐 通巻第6818号

  書評 

 なぜ銅鐸が突然消えて、古墳時代となったのだろう
  鉄資源の奪い合いという視点を欠く日本の古代史学界

  真弓常忠『古代の鉄と神々』(ちくま学芸文庫)

 歴史学者が、「こわくて」取り上げない名著がある。
 著者の真弓常忠氏といえば、神道の研究家にして住吉大社の宮司を務められ、ながらく「憂国忌」の発起人でもあった。 『大嘗祭』などの著作でも知られ、『真弓常忠著作選集』(全四巻)がある。
 その真弓氏が古代の歴史学者が未踏の分野に挑んだのが本書で、先ごろ待望の文庫入りした。元本は昭和60(1985) 年である。

 『出雲国風土記』には鉄の分布状況が示唆されている。
「諸郷より出すところの鉄堅くして、尤も雑の具を造るに堪ふ」とあり、「各所で砂鉄を産することを示している。事実、出 雲は沙跌の豊富な地である」。
鉄の溶融点は1525度。銅は1100度。ところが「鉄は溶融しなくとも、7-800度の熱度で可鍛鉄を得さえすれば、 これを熱してはたたき、熱してはたたいて鍛造できる」(19p)

 真弓氏は三輪山にも数度登攀した。「明らかに鉄分の多いはんれい岩から成っている山である」。
 山麓扇状地ははんれい岩の風化で粘土混じりの細鉄があって精錬が可能だった。付近には金屋という地名が残り、また鉄の 残滓が遺蹟から出土している。
 「穴穂」の解釈が拡がって、これまでの歴史学者は「穴」は居住区、穂は稲穂としてきたが、穴は鉄穴を意味し、穂とは 「その秀でたもの」を指すと目から鱗の解釈を示した。

 真弓氏はこう言われるのだ。
「大和の民が三輪山を神聖視したのは、その秀麗な山容もさることながら、その山麓に営む水稲耕作に不可欠な鉄製品の原料 たる砂鉄を産する山だったからである」(43p)
 さらに「大物主神の『モノ』にしても、物部のモノにしても、その発祥は鉄であった」。まして平和利用だけではなく、鉄 は武器になりえ、モノノフ、モノノグ、モノノケと三重の意味を含んでいた。武士と道具と霊力である。

 古代に「鈴」と呼ばれたものは鳴石ともいわれ、現代人の理解する「錫」ではない。
 製鉄が出来たのだ。
だから農業が発展し、他方で戦争の武器の高度化ともなった。これが「褐鉄鉱」で、「若干の吸着水をもつ水酸化鉄の集合 体」を意味する。
 「沼沢、湿原にはえる薦、葦、茅のような植物の根に好んで形成されるのは、こうした植物の根から水中に含まれる鉄分を 吸収して成長するからである」(67p)。
 そして「褐鉄鉱の団塊、すなわち『スズ』はそのまま製鉄の原料となった」とする。真弓氏は、「銅鐸と関係があることを 瞬間的にひらめいた」という。
 それらは出雲、大和、尾張そして信濃に産した。長野県に茅野市があるように鉄に由来する地名が多いことに気がつくだろ う。

 銅鐸は、ある時にから用いられなくなった。
三世紀あたりから帰化系技術者の渡来でイノベーションがなされ、また「大量の鉄挺が輸入されるにおよんで、沼沢・湿原の 薦や葦の根にスズがうまれるのを気長く待つ必要がなくなったからに他ならない。製鉄技術の革新が、弥生時代の銅鐸祭祀の 終焉と古墳時代のはじまりを告げる」(101p)。

 『播磨国風土記』には韓室の郷があったと記している。「韓室」とはたたら溶鉱炉があったことであり、また同風土記にあ る「因達(いだて)の郷」は神功皇后が三韓征伐の帰路に連れ帰った鍛冶集団で、帰化人の集落だったのである。
 スサノオが八重垣と詠んだ相手のクシナダヒメはクシ(尊い、得難い)イナダ(稲田)と解釈できるから水田の女神とな る。あの時代すでに、酒が用意できたように、稲穂がなびく水田が出雲には拓けていたことになる。
高志の大蛇(ヤマタノオロチ)は、出雲を平定しようとしていた高志国の軍隊であるとすれば、出雲の防衛にスサノヲが成功 した。
 このスサノオの超人的活躍はSFもどきに古事記に描かれているが、スサノオは「渚沙」と解釈され、じつは砂鉄精錬の集 団だったと吉野裕(古代学者)が唱えていたことを思い出した。
 上記説を真弓氏は首肯しているわけではないが、次のように繋ぐ。
 「神功皇后紀四十六年には、百済の肖古王が鉄廷四十枚をわが国の使に贈った記事が見え、皇后の陵墓である狭城盾列池上 稜を含む佐紀古墳群のウワナベ古墳の陪家より、大二八丁、小五百九十丁という驚くべき大量の鉄廷が発見されている」 (141p)
 「豊葦原の瑞穂の国」とは鉄分を吸収した稲穂の豊かなところだったのだ。
ところが、「褐鉄鉱は磁鉄鉱に比べて品位は低いから、酸素に弱く、酸化腐食するのも早く、弥生時代の遺物として残存する ことはまれなため、考古学の対象ともなっていない」(258p)。
 古代史のミステリーがまた一つ解けた。

  宮崎さんは解けたと書かれているので、これを受け入れたようです。この百済も既に日本人が多くいたことを考えれば又別の考えもありそうです。
  いずれにしても、誰も見たことの時代の話です。楽しく考察するしか無いのでしょう。

それにしても、日本は凄い!

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