団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★助さん格さん、懲らしめてやりなさい

2016年06月25日 | 誇れる日本

  ねずさんが、2014年10月24日 (金)、第 528 回の「水 戸黄門が終わった訳」で取り上げた考察を、書き足して、より分かりやすく詳細に書いてくれています。これ も、目から 鱗です。

  何時ものように、全文は是非、リンク元で読んでください。日本人の民度の高さに驚かされます。

 と言うことで、もしかしたら、これに気がつかなかったパナソニックの経営陣が単に視聴率が落ちたからと辞めてしまった のじゃな いでしょうか。つまりは、経営陣が、幸之助さんの深い考えに及びもつかずに、切り捨ててしまった何てことじゃないでしょうか。
 そして、そうした、日本人の心に気がつかないような経営者の企業が、凋落し出したのも関係がありそうな気がします。

  もう一つ思いつくのが、シャープです。シャープもCMに経営陣の好みであの真っ赤かの吉永小百合を使い出したこと も、もしか したら、隠れた原因の一つかもしれませんよ。
  ということで、半日売国左翼メディアが作るCMや番組の中身に無頓着な経営者の企業は、もしかしたら危ないかもしれ ません よ。やはり、もっと真剣にどんな番組の提供をするかも考えた方が良いのじゃないでしょうか。
  今や、多くの目覚めた日本人がテレビを見なくなってきています。それも、半日売国左翼の余りにも偏向した番組に気が つき出し たこともあります。そんな 番組をきちんと考えもせずに、安易に提供なんかしていると、会社を潰す何てことになりかねません。やはり、もっときちんと考察し て提供すべきです。
  スポンサーが、そうした態度を見せれば、偏向した、反日売国メディアも変わらざるを得なくなるのじゃないでしょう か。

  経営者よ、ねずさんのこの考えを読んで、真剣に考えてください。会社の未来がかかってますよ。

  小名木善行 ねずさんの ひとりごとよ り   2016年06月13日

  助 さん格さん、懲らしめてやりなさい

  水戸黄門のラストシーンでお馴染みの、黄門様のセリフは、「助さん、角さん、懲らしめてやりなさいっ!」でした。
このセリフ、実はとっても日本的です。

 助さんや格さんが、このとき戦う相手は、武装した悪徳代官や悪徳商人の一味です。
一味の連中がどういう連中かというと、たとえば藩主を廃絶して悪徳仲間で政権を牛耳ろうとしたりしている、いわば政府転 覆をはか ろうとする連中です。
そのために、平気で人を踏みにじります。
要するに我欲のために平気で人を踏みにじるウシハク存在であり、テロ集団です。

 そしてこのようなテロ集団は、水戸黄門が連続ドラマであった時代よりも、むしろ今の日本に数多く跋扈しているように思 います。
水戸黄門の放映が終わるわけです。
まるで自分たちのことを描写されているように感じたのであろうかとも思います。…中略

 ところが水戸黄門は、どこまでも「懲らしめてやりなさい」です。
テレビドラマの黄門様も、石田浩二や里見浩太朗が黄門様役をするようになってからは、監督かプロデューサーが日本人でな くなった ためなのか、「懲らしめる」といいながら、助さんや格さんに、由美かおるや照英まで加わって、バッタバッタと悪人たちを斬り殺す ようになりました。
けれど黄門様を東野英治郎や西村晃が演じていた頃は、悪人たちを殺さない峰打ちでした。

 もっと前の黄門様、たとえば昭和32年の「映画・水戸黄門」では、主演が月形竜之介なのですが、ここでは黄門様ご一行 が暴れ回 る お楽しみ乱闘シーンで、刀を手にした大勢の悪人を前に、助さん格さんは、刀さえ抜きません。
手にしているのは十手です。
黄門様も杖だけで戦うという描写でした。
相手の暴徒たちを斬り殺そうという意思が、そこにまったくないのです。

 暴徒たちを相手に刀を振るうのは、義憤を感じた善玉の武士が、その場に助太刀して、刀を持って暴れるくらいで、すると 悪人たち は、「引け、引け~」といって、簡単に逃げていってしまいます。
要するに、あくまで襲って来たものに対して自衛のために「武」を用いています。

 テレビドラマの黄門様は、東野英治郎の時代には、「懲らしめてやりなさい」と、やや能動的に武力を用いるようになりま したが、 そ れでも、悪人を懲らしめるだけで、殺してなどいないのです。
当然のことです。
日本人にとって「武」は、どこまでも「相手の矛を止める」ためのものなのです。

 ハリウッド映画では、米国の庶民感情を反映して、「弱い者を守るのは素晴らしいことであり、それを守るために行われる すべての こ とは正しい」となります。
ですから「懲らしめる」のではなく、戦い、なぎ倒し、殺します。

 支那映画ですと、ヒーローが、今度は何百何千という敵をなぎ倒します。
まさに白髭三千丈で、話が大げさになります。
映画やドラマというのは大衆芸能ですから、それぞれの国ごとの民族感情が色濃く反映されるようです。

 問題は、日本です。
すくなくとも、昭和30年代くらいまでは、武を手前勝手な都合に用いることは非道であり外道のすることという感情が強 かったので す。
「武」はあくまでも、そういう外道の矛を止めるという「常識」が明確に働いていたのです。

 ところがその後の高度成長期になると、相手を懲らしめるために「積極的に武を用いるけれど、それはあくまで懲らしめる ためのも の であって、殺すことはしない」と変化しました。
バブル期になると「懲らしめるといいながら、殺しまくる」という描写に変わています。

 大衆芸能というのは、大衆が求めるものを提供するからヒットするわけで、提案した作品と大衆の求めるものに齟齬があれ ば、その 作 品は売れないし、テレビなら視聴率があがりません。

 最初のうちは良いのです。
たとえば「子連れ狼」は、時代劇が衰退していく中で、空前のヒットとなりました。
劇画調にバッタバッタと人を斬る。
悪人たちを切り倒す。
現実には絶対にできそうにない、大殺戮、大虐殺が、たったひとりの手によって行われ、鮮血がほとばしる。

 けれど、そうした残酷な描写は、一時的には人目を引いてヒットに結びつきますが、日本人は、そこからすぐに離れてしま います。
ヤクザ映画も同じです。
義理と人情の渡世映画が、次第に鮮血がほとばしる残酷映画に変わっていき、変わっていくことで一時的なヒットは飛ばしま したが、 結局衰退しました。

 そして仁義なき戦いシリーズに代表される、義理もなければ人情もない。ただ怒りと不条理だけが描写される映画が大ヒッ トとなり ま した。
そしてヤクザ映画は、衰退しました。

 「どんな手を使おうが勝てば良い」という思想は、はじめのうちは日本人に「認知不協和」を引き起こして、めずらしいも の見たさ の 人を集めますが、そうした日本人の感情にもともとないようなものは、結果として衰退してしまうのです。

 水戸黄門シリーズも同じです。
不条理に対してただ「懲らしめる」だけだったシリーズが、いつの間にか、懲らしめるのではなく平気で人を殺戮するように なり、つ いに番組終了頃には、なんと黄門様のご一行が、情報を得るために平気で人を騙すようになりました。

 いくら人気俳優を使っても、これではお茶の間に受け入れられません。
結果、夜8時台のゴールデンタイムの黄門様よりも、午後4時からのリバイバルの黄門様の方が視聴率が良くなり、これで局 側も少し は気付くのかと思ったら、結局黄門シリーズそのものが打ち切りになってしまいました。
普通の日本人なら誰もが気付く、自分たちの番組作りの間違いに、彼ら自身はまるで気づかなかったのでしょう。
たた「勝てば良い」という、日本人のような顔をした日本人でない人たちの感覚では、理解不能であったのであろうと思いま す。…以 下略

  日本の企業経営者には目を覚ましてもらいたいですが、韓国系の企業にそれを求めても無駄です。これは、やはり、日本 人が不買 運動で淘汰するしかないでしょう。



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