このねずさんが取り上げてくる話は何度読んでも夫婦の覚悟に驚くとともに感動させられます。とは言え、新婚だからこそ出来たことじゃないでしょうか。
それにしても、こんなご夫婦が靖国に祀られることに最初は反対だったというのは悲しいですね。
こんなご夫婦が祀られている靖国を未だに参拝できない日本は本当に情けない。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/08/30
妻と飛んだ特攻機 神州不滅特別飛行攻撃隊
・・・略
この物語には、後日談があります。
出撃の際に、飛行場で墜落してしまった伴少尉、途中で不時着した宮川少尉、第五練習航空隊の隊長であった箕輪中尉など、生き残った関係者は、その後、全員、ソ連軍によって連れ去られ、シベリアに抑留されました。
そして伴少尉は、シベリアの収容所内で、若い命を落とされています。
彼らが抑留されている間、日本国内では、最後の特攻を敢行した11名については、軍の正式命令に基づく特攻ではなく、自らの判断による特攻だったということで、戦後の日本政府による正式な調査も行われず、また靖国神社への合祀も行われませんでした。
シベリアの抑留生活から帰国した箕輪元中尉らは、このことを知り、粘り強く厚生省と折衝を続け、やっっと昭和32年になって、彼ら10名は戦没者として認められ、靖国神社もかれらを合祀を実現しています。
そして箕輪元中尉らは、さらに募金を集め、昭和42(1967)年5月に、東京世田谷区の世田谷観音内に、神州不滅特別攻撃隊の顕彰碑を建立しました。
そしてその碑文に、
「谷藤少尉の如きは、
結婚間もない新妻朝子夫人を後ろに乗せて」
の一文が刻まれたのです。
顕彰碑が建立されたころ、朝子さんは、この時点で戸籍上はまだ生きている人として登録されていました。
朝子さんの母親である中島トヨノさんは、九州の唐津で、愛する娘さんの帰りを、ずっと待っていました。
事情を知る人が、朝子さんは徹夫さんと一緒に特攻機で旅立たれたのですよと話しても、トヨノさんは、娘は生きていると、絶対に信じようとしなかったそうです。
昭和43(1968)年箕輪元中尉が、朝子さんの特攻出撃の日のことを詳しくしたためた死亡証明書をトヨノさんに手渡したとき、トヨノさんは、泣き崩れたそうです。
「朝子が(釜山に渡る)連絡船に乗り込む時、
『徹夫さんの勤務に喜んでついていくんですよ。
一生懸命内助の功を尽くしなさい』
と言って別れたんです。
まさか、特攻にまで付いて行ったなんて・・・」
出撃されたときの白のワンピースは、戦時下でのせめてもの死出の旅立ちの衣装だったのかもしれません。
朝子さんは、ご主人のことを本当に愛していらしたのですね。
どこまでも一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。
たとえ命がなくなっても、魂は夫とともにありたい。
昔は、肉体には魂が宿ると考えられていたのです。
死ねば肉体は滅び、命はなくなるけれど、魂は永遠です。
また輪廻転生するか、あるいは神となると思われていました。
お二人の身はなくなりました。
けれどお二人の魂は、きっと平和な世の中に生まれ変わって、幸せなご夫婦として、いまもどこかでお暮らしになられておいでなのではないでしょうか。
スミ子さんも、隊員の方々が大好きだったのだろうと思います。
日頃隊員の方々と接していて、この人達が大好きになったのでしょう。
宿屋の女給とお客さんという立場を越えて、彼らと彼女には情が通ったのだと思います。
だから一緒に死のうと思った。
彼ら、彼女らはどうして死んだのでしょうか。
祖国の不滅を信じたから?
それだけではないと思います。
魂というものは、ほんの数十年の人生で滅びてなくなってしまうような、ちっぽけなものではありません。
彼らは、永遠に神州の守護神となって生き続けようとされたのだと思います。
戦争が終わった後も生きて、神州をもう一度再興する人々がいます。
その人々を信じたから、彼らは散っていったのだと思います。
そしてその「信じられた」人々というのは、他でもない、いま生きている私達です。
今の日本人にこのご夫婦の信頼に応えられる人がどれ程いることでしょうか。せめて、近い未来にはそうなって欲しいものです。
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