靖国に維新の朝敵が祀られていないことも知らなかったのでどうしてそんなにいつまでもしこりが消えないのかと不思議でした。
と思っていたら、この朝敵という言葉が問題のようです。伏見・鳥羽の戦いから突然朝敵とされた幕府軍にしたら納得が行かないでしょう。
幕府軍も国を思って戦ったのですからここは朝敵という言葉を使わないこととし、幕府軍も祀ってあげるのはどうでしょう。
ねずさんがそんな複雑な裏を教えてくれています。讃岐の呑百姓には分からない心です。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/07/10
7月17日は江 戸が東京と改称された日
・・・略
日本は、神代の昔から天皇のシラス国です。
ですから江戸の将軍は、天皇からその地位を親任された武家政治の総責任者です。
ところが、明治維新において、将軍は、その大政権を奉還したのですが、一部の者たちが、これを不服として天皇に刃を向けまし た。
つまり朝敵となりました。
朝敵となった者は、すでにその時点で、天皇のシラス国の臣民ではありません。
臣民ではなく賊軍だから、官軍によって討たれるのです。
すくなくとも理論上はそうなります。
すると日本国が、日本民でない人たちと戦うわけですから、これは国家が行う戦争だということになります。
戊辰の役に、国際戦争をあらわす「戦争」という用語が用いられているのは、そういう理由です。
このため靖国神社に戊辰戦争の際の幕臣たちは一切祀られていません。
実はこの「朝敵とされた」ということが、昭和から平成期に至ってもなお、根強い不服として旧幕臣たちの心の傷となっていて、 そういうことが靖国参拝への密かな感情的反発になっていたという側面もあります。
どういうことかというと、旧幕臣の家や幕軍の人たちが、戦没者の慰霊であっても、あえて靖国には行かず、地元の護国神社や、 菩提寺、あるいは別に自分たちで築いた慰霊塔などの前で行ってきました。
東京をはじめ、全国各所に慰霊施設があることには、実はそういう事情があります。
もちろん幕府側の全員ではありません。
ただ、一部の(というか本当は大半の)頑固者たちは、そのようにしてきました。
私なども若いころ、取引先とトラブルがあったとき、若気の至りで
「出るところに出ますよ」と言ったら、
相手の方(ご高齢の社長さん)は、が、
「勝手にしろ!ワシは薩長の裁判所なんか信用せん!」
とおっしゃられて、びっくりしたことがありました。
戊辰戦争といっても、たった150年前の出来事なのです。
ただ、ようやくといいますか、この数年、かつての幕臣の家の方々も、靖国参拝を行うようになりました。
日本が壊れそうだという危機感から、いつまでも過去を引きずるわけにはいかないという思いが強くなってきたからです。
けれどその一方で、全国にある別な追悼施設が閑散とし、その維持管理が難しくなってきているという状況も生まれています。
歴史は、複雑に絡み合います。
けれど、どんなに複雑な感情も、日本という国は、それを長い年月のうちに、風化させ、同化させ、ついにはすべてを一体化させ てきました。
対立よりも和。
それが、日本の中心となる心です。
それがあるから、一体化が可能になります。
そしてこの点が、戦争と平和とか、強国と弱国とか、金持ちと貧乏人、あるいは男と女など、何もかもを「対立」で捉えようとす る西洋文化と、我が国古来の固有の文化の大きな違いです。
護国神社が何故各地にあるのかも全く知りませんでした。この同じ日本人どうしのいがみ合いも年月が解決するのでしょうか。その年月がどれ程かかるのでしょうか。
その時期を早める為にも朝敵という言葉を止めましょう。
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