Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

レイジング・ケイン

2007年01月16日 12時27分09秒 | 洋画1992年

 ◎レイジング・ケイン(1992年 アメリカ 92分)

 原題/Raising Cain

 監督・脚本/ブライアン・デ・パルマ 音楽/ピノ・ドナジオ

 出演/ジョン・リスゴー ロリータ・ダヴィドヴィッチ スティーヴン・バウアー メル・ハリス

 

 ◎ひとり4役

 ジョン・リスゴーも大変だったろうけど、デ・パルマとは昔からのつきあいだし、愉しむしかないよね、とかいう感じで、この多重人格役をひきうけたんだろうか?

 それにしても、沼に沈められてゆく車を観て、

「ああ、サイコね~」

 と気がつく人は多いだろうけど、ヒッチコックのパロディはおろか、自作までパロディにするデ・パルマの脳髄は、いったい、なにを考えていたんだろう?ひさしぶりに好き勝手できる作品を撮る機会に恵まれたことで、もうやりたい放題やってやるぜってな気分になっちゃったんだろうか?

 ま、デ・パルマがなにを考えていたかはさておき、やっぱり、彼は大作よりも小品がいい。

 女の精神科博士フランセス・スターンヘイゲンの分析を警察が聞きながら、沼から引き揚げた死体の所まで降りてゆくところのカメラは圧巻だ。さすが、デ・パルマ。ドナジオの音楽も相変わらず冴えてるし、やっぱ、B級ながらも流れるような映像と音調は、このふたりの右に出る者はいないんじゃないだろうか?ってな気にさせるくらい、デ・パルマ心をくすぐられてしまった。

 なにかと悪評の多い『レイジング・ケイン』だけど、すこしくらい辻褄が合ってなくたって、すこしくらい破綻してたって、最初から多重人格のオチがわかったって、でっかいジョン・リスゴーの女装が恐ろしくたって、そんなことくらい、いいじゃんね。

 だって、デ・パルマなんだもん。

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あした

2007年01月15日 12時24分33秒 | 邦画1991~2000年

 ◇あした(1995年 日本 141分)

 監督・撮影台本/大林宣彦 音楽/學草太郎 岩代太郎

 出演/高橋かおり 風吹ジュン 原田知世 宝生舞 植木等 岸部一徳 多岐川裕美

 

 ◇尾道呼子浜

 っていう浜は、現実には存在しないらしい。

 尾道にはたった一度だけ行ったことがある。けど、尾道ラーメンも食べなかったし、大林組のロケ地を訪問してもいない。列車で着いたあと、バスに乗り込んで、しまなみ海道だったかをめざした。

 筋立てはなんとなく洋画っぽい展開で、なんでかわからないけど『コクーン』をおもいだした。

 人は、知り合いの死を悲しむが、死んでいった人もまた、親しい人との別れを悲しむ。もう一度だけ逢いたいとおもうのは、人として共通のおもいだ。沈没事故で死んだ者はやはり死んでも船に乗ってて、その船で愛する人に「さよなら」をいうために帰ってくるんだけど、かれらに共通していることは、海から上がってこられず、直接、声を聞かせて呼び出させることだ。

 なんか理由があるんだろうけど、それは明確にされない。ふつう、おばけというのは、地縛霊にでもならないかぎりかなり自由で、家族のところへひとりで帰ってきたりするんだけど、かれらの場合、かなり現実味を帯びてる。

 おそらく、まだ霊界に上る前の段階で、あの世とこの世の間にある世界で、昇天の支度をしているときだったんだろう。だから、まだ人間としての感覚が残ってて、ともかく、自分たちが死んだ海で逢わないといけないっていう想いが強かったんだろう。

 そのあたりのことは、単に想像するだけだけど、ぼくはほんとに映画の前知識を仕入れないものだから、高橋かおりが旅する青春映画かとおもって観ていたら、そうじゃなかったっていうお粗末な話だ。

 でも、こういう主題の場合、お風呂の場面とかは、いまだに要らないんじゃないかとおもってるんだけど、ちがうかな~?

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桜の森の満開の下

2007年01月14日 12時21分49秒 | 邦画1971~1980年

 ◎桜の森の満開の下(1975年 日本 95分)

 監督/篠田正浩 音楽/武満徹

 出演/岩下志麻 若山富三郎 西村晃 伊佐山ひろ子 滝田裕介 観世栄夫 丘淑美

 

 ◎昭和22年6月15日、原作発表

 桜の森に、たったひとりで行きたいとおもうだろうか?

 森はどんな森であっても、ひとりではなかなか行きたいとおもわないが、それが、ことに桜であれば、なおさら満開の下には行きたくない。なぜなら、恐ろしいからだ。

 人は、美しいものには惹かれるけど、同時に恐ろしさも感じとる。だから、桜の下には魔性が棲むというのは、あながち嘘でもないような気がする。どうやら坂口安吾も戦後の焼け野原の中でそんなことをおもったらしく、その印象が、この原作を書かせたみたいだ。

 原作を読むのはちょっとだけ苦労したけど、篠田正浩がかなり忠実に映像化していることはわかった。

 ただ、原作どおりに、現代の花見と対比させる必要はないんじゃないかとも、ちょっぴり興醒めな感じで、おもわないではないけどね。武満徹の音楽がぴったり合ってるのは、篠田正浩と通じ合うものがあるからかどうかはわからないけど、いや、非常に雅で良かったです。鈴木達夫のカメラもなかなか良いし、桜に埋もれる能面のような岩下志麻は、いやまじ、綺麗でした。

 まあ、映画についてはさておき、桜といえば、すこし前に飯田の一本桜を見に行ったことがある。

 桜守の方と知り合い、案内もしていただいたんだけど、そりゃもう凄い迫力で、もしも、こんなにでかい桜が森になってたら、ぜったい、魔物が棲んでいて、美女になって誑し込んできて、命ぜられるままに人を殺し、首をとってきて差し出すにちがいない。桜の魔力の前には、人は抗いがたい。それほど桜の森は恐ろしいんだとおもうよ。ま、ひとりで行くことはないとおもうけど。

 ああ、すっかり忘れてたんだけど、『鏡の中の私』も、桜の霊の話だったよね。

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理由

2007年01月13日 12時19分30秒 | 洋画1995年

 ◎理由(1995年 アメリカ 102分)

 原題/Just Cause

 監督/アーネ・グリムシャー 音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード

 出演/ショーン・コネリー エド・ハリス ローレンス・フィッシュバーン ケイト・キャプショー

 

 ◎理由っていう題名のついた理由

 原題『Just Cause』の意味は『正に原因となる人物、あるいは事件』てな感じだろうか。

 それについてはちょっと置いといて。映画の中身だ。

 死刑廃止、人権擁護の正義感に燃える大学教授ってのは、どこかでおもいこみが激しく、どこかで人が好く、どこかで勘違いしてるものだっていうような皮肉が映画全体に込められてるのかもしれないけど、そんなものすべて蹴飛ばしてしまうような存在感がショーン・コネリーにはある。こりゃ、かなりいれこんでるな~とおもえば、なんだ、製作総指揮じゃんか。

 てことは、この映画、ショーン・コネリーが陣頭に立ってたんだよね?

 どうしてもやりたい話だったんだ~と、なんとなく納得した。

 これまで演じてきた役柄をみずから覆したいとおもったのかもしれないけど、完璧に見える人間でも、やっぱり人間であるかぎり、だまされるし、家族に危険が及べば焦りまくるし、自分が騙されたと気づいたときに怒るし、落胆する。それが、人間臭さってやつなんだと、ショーン・コネリーはいいたかったんだろうか?

『アンタッチャブル』の人間臭さとはまた別な、人生を完璧に歩んでしまったがゆえのプライドが崩れるときの哀しさがあるわ~。

 まあ、そんなことを製作総指揮がおもっていたからかもしれないけど、キャプショーが良妻賢母の元地方検事を、エドが狂った殺人鬼を、フィッシュバーンが暴力刑事を、そして、なんとまあ、スカーレット・ヨハンソンが教授の10歳の娘役をと、なかなか意外なキャスティングを見せてくれてる。とはいえ、ヨハンソンの少女時代に気がついた観客がいたら、その人、すげーよ。

 けど、フロリダって、こんな感じの差別社会なんだろうか。噎せかえる雰囲気を出そう出そうとかんばってるのはわかった。

「死体がまだ新しかった」っていうところから、俄然、面白くなるんだけど、ショーン・コネリーがフロリダまで招かれた理由が、冤罪を証明してもらうというだけじゃなくて、その妻が過去に担当した事件になったっていうのが、この題名が『理由』となってる理由なんだけど、ま、これくらいにしとこ。

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殺し

2007年01月12日 12時16分28秒 | 洋画1961~1970年

 ◎殺し(1962年 イタリア 92分)

 原題/La Commare Secca

 監督/ベルナルド・ベルトルッチ 音楽/ピエロ・ピッチオーニ

 出演/フランチェスコ・ルイウ ジャンカルロ・デ・ローザ ヴィンチェンツォ・チッコラ

 

 ◎ベルトルッチ、衝撃のデビュー

 若干21歳。当時、詩人。そして処女作。

「やめてよ、まったく」

 といいたいほどの映像的な才能。

 パゾリーニとは詩を介して知り合ったっていうんだけど、師匠と弟子っていう関係だったんだろうか?

 けど、自分で撮ろうとしていた映画のあらすじを渡しちゃうわけだから、パゾリーニも相当、若き日のベルトルッチを買ってたんだろね。もちろん、パゾリーニにしてみれば賭けみたいなものだろう。詩作は多少できても、映画の監督が務まるかどうかはわからないんだから。いや、結局のところ、ベルトルッチを発掘したんだから、さすが、パゾリーニっていうか、人を観る目があったんだろう。だから、原案を提供したんだろうね。

 それにしても、見事な映像詩だ。吹きっ晒しの河原、夕陽に舞う無数の紙切れ、中年の娼婦の死体、五人の容疑者、バック盗みのコソ泥、娼婦のヒモ、ヒモの愛人、ケンカ、娼婦の部屋、陰鬱な空気、しとしとと降る雨、罵声、休暇中の兵士、好色、ローマの女、ふたりの少年、警官、逃走、溺死、少年の真実、ふたりの少女、食料品店、金欠、ホモ、コート盗み、ホモの目撃、犯人、縦縞の男、サンダル、足音、ダンス、若い娼婦、そして逆光、流麗なカメラワーク…。

 でたらめに聞こえるさまざまな証言が、そのままモザイクのように散りばめられ、やはりモザイクのような映像とともに犯人像を形づくり、事件をひっぱる。

 これが、才能っていうやつだ。

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男たちの大和/YAMATO

2007年01月11日 12時13分54秒 | 邦画2005年

 △男たちの大和/YAMATO(2005年 日本 143分)

 監督・脚本/佐藤純彌 音楽/久石譲

 出演/仲代達矢 鈴木京香 反町隆史 中村獅童 松山ケンイチ 渡哲也

 

 △昭和20年4月7日、大和撃沈

 学校に通ってた頃、ぼくは戦争というものにまるで興味がなかった。

 戦争の話を聞かされるとき、それはたいがい惨めな話で、戦争は悪いことだとずっと聞かされてきたから、そんなものに興味を持つはずがないよね。小学校の時代も、プラモデルで軍艦や戦車を作ってる友達がいたりしたけど、ぼくの作るプラモデルといえばほとんどが怪獣かアニメのキャラクターで、ときどき城とかは作ったりしたけど、兵器や武器にはまるで無関心だった。

 信じられないような話ながら、戦艦大和も零戦も、木造だとおもってた。

「くろがねの浮かべる城」という表現が戦艦を指すものだってことも、まるで知らなかった。

 ていうより、そもそも、戦艦や戦闘機とかについて考えなかった。でも、人間、年は取るものだよね。今では、大和も零戦も木造じゃないってことくらいは知ってる。で、その『大和』のことだ。戦艦大和というのはなんとも不運な軍艦で、ぼくらが学生の頃には、反戦の象徴として扱われることがままあった。

「世界3大バカは万里の長城、ギザのピラミッド、戦艦大和」

 とかいわれ、無用にでかいものを作ったからだと説明された。誰がいった言葉かということはひとまずおいて、でも、そんな世界的なバカのひとつなのに、一方では、世界最大最強の戦艦と讃える。大和にしてみれば、迷惑な話だろう。

 この艦は、日本を守るために造られた。たしかにその図体のせいで、パナマ運河こそ通過できないけど、世界のどの軍艦よりも頑丈で、射程距離が長く、そして最強の砲弾をぶちこむ。その方針で造られたはずが、沖縄決戦の応援に充てられ、菊水作戦が発動されるや、制空権を奪われた戦場めがけて出撃した。すでに正規空母もない状況だから、わずかな航空機の護衛すら無く、蜂の巣にされ、沈められた。

 戦闘能力を失った時点で、すでにそれは完璧な敗北といえるから、もしも、敵とはいえ日本人の人命もまた尊重するという思想が米軍にあれば、どこかの小島か岩礁に擱座するのを想定して、攻撃をやめるべきだったろう。そうすれば、乗組員の半数以上は生還させられたはずだ。

 けれど、戦争はそんな甘っちょろいもんじゃなかったんだろうね。乗組員3016名中、2740名が戦死した。当時、こんなはずじゃなかったと大和を造り上げた人達はおもったろうし、これでいいのだとおもった日本人はたぶん稀れだったろう。

 で、現代人の感覚はどうなんだろね。大和が激闘を繰り広げたときの血の量も赤さも匂いも薄まり、冷静な第三者があれこれと分析して、大和の持っていた意義や覚悟や悲劇性よりも、軍国日本の象徴のひとつとして捉えられてるんだろうか?大和は、これまでにもいろんな映画に登場してきた。多くの場合、反戦あるいは悲劇を語る際、引きずり出された。そうでない大和を描く場合、宇宙に飛び出すしかなかった。

 この作品はどうかといえば、やっぱり反戦映画だったとぼくは受け止める。

 反戦を訴えるのは大切なことだとおもうけど、ひとつひっかかったのは、長嶋一茂演じる臼淵磐少佐だ。文人になれるような素質を持った人だったんだけど、海軍の軍人になりたいという意欲の方が勝って海兵に進んだ。死後進級して少佐になったから大和出撃時は大尉だった。経歴や階級はさておき、この人は、出撃の前夜、海兵出身の若手将校と学徒出身の予備士官との間で論争があり、

「今次作戦につき、国の為に殉じることは意義ありやなしや」

 というような論争があり、あわや乱闘になりかけたときに割って入り、

「敗れて目覚める。祖国の新生に先駆けて散ることこそ本望なり」

 というような台詞をいったことになってる。ただ、生還者の証言からちょっと信憑性に欠けるともいわれてるらしい。たしかにそうかもしれないね。出撃の前夜、ここまで達観してたら大したものだけど、たとえ、そんな余裕があったにせよ、ちょっといえない。まあ、このあたりの話は長くなるからしないけど、反戦映画としてこの作品が製作されたんなら、大きな意味を持った台詞ってことになるんだろうね。

 ただ、こんなことがあった。沖縄へ行ったときのことだ。ひとりの老人と知り合った。その人は「都内でラーメン屋をやってるんだ」といっていたんだけど、話を聞けば、戦争当時は現役兵で、飛行機の操縦士だったらしい。主に一式陸攻っていう陸上攻撃機を操縦してたそうで、あるとき、トラック諸島に派遣された。

 すると、

「大和がいたんだ」

 やっぱり、どでかい戦艦だったらしい。長門が隣に繋留されてたけど、比べ物にならないバカでかさだったらしい。いや、ただでかいだけじゃなく、たとえようもなく美しい艦影だったらしい。くわえて、

「あいつがもっといろんな戦場に出て、主砲をぶっぱなしてりゃあなぁ」

 そのおじさんにとって、大和は当時も今も最強の守り神なんだろう。ラーメン屋さんは、いまにも泣きそうな顔だったけど、胸をはって、なんとも誇らしげに、こういった。

「大和は、ほんとに凄かった。あいつに勝てる戦艦は、世界のどこにもねえんだ」

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眼の壁

2007年01月10日 14時21分59秒 | 邦画1951~1960年

 ◇眼の壁(1958年 日本 95分)

 監督/大庭秀雄 音楽/池田正義

 出演/佐田啓二 鳳八千代 朝丘雪路 織田政雄 宇佐美淳也 渡辺文雄 左卜全

 

 ◇清張好みの題名

 未だに題名の意味がよく理解できていないのかもしれないんだけど『眼の壁』ってのは、なにを意味してるんだろう?

 中学高校と、ぼくの読む小説はたいがい探偵小説で、それも戦前から戦後まもない頃に世に出た作品で、簡単にいってしまえば、江戸川乱歩、横溝正史、小栗虫太郎、浜尾四郎、夢野久作とかで、松本清張は古代史物は手に取ったけど、社会派推理小説とかいわれてて、どうも学生のぼくには関係のない世界みたいで、触手が動かなかった。

 やっぱりサラリーマンが読み手だったんだろね。だから、この原作を読んだのは、社会に出て随分経ってからだ。でも、ほとんど忘れちゃった。これはほかのどんな小説でもそうで、読んだ数も少ないくせに、恥ずかしながらまるで憶えてない。そんな人間が題名の意味とかいってるんだから、駄目だよね。

 ちなみに、清張の小説は『眼の壁』みたいに抽象的なものが多い。当時の流行だったのかもしれないんだけど、なんだか文学的っていうんだろうか、よく考えないとわからない。そういう感じの題名でいちばんわかりやすいのは『砂の器』だけど、これについては、いつか触れる機会もあるだろう。

 あ、でも、ひとつだけ。ぼくは『砂の器』がかなり好きで、それを観て以来、カメラマンの川又昂のことが気になってきた。で、この作品だ。撮影チーフ川又昂!おお、とおもった。撮影は当時の松竹をしょって立ってるような厚田雄春で、小津の作品では無くてはならない存在だけど、ぼくにとっては「おお、川又昂!」なんだよね。

「この時代から清張物で地方ロケをしてたのね~」

 とかおもうだけで、なんとなく嬉しかったりするんだ。

 瑞波ロケの雰囲気も良で、病院や郵便局の雰囲気もよく、もはや、この時代の映画は、映像資料としての価値が出てきたんじゃないかな。それと松竹といえば、やっぱり佐田啓二で、これは大庭秀雄との「君の名は・コンビ」で考えられていたのかしら?ちょい根暗だけど、それが上司の仇を討つ役柄にあってたのかな?

 あと、役者でいえば、宇佐美淳也と左卜全は好演。音楽も、不気味で好い。脚本も、強引なところはあるけど、ぎっしり詰め込んだ印象は充分ある。死体処理のトリックについてなんだけど、濃硫酸と重クローム酸ソーダを混合した溶液でほんとに死体が溶けるのかどうか、ぼくにはさっぱりわからない。

 ただ、松本清張は、実際にあった事件にヒントを得たようで、足立区にあるの日本皮革(現:ニッピ)の工場で起こったらしい。被害者の死体を、今も触れた混合溶液であらかた溶かし、さらに塩酸と硫酸の混合液で全部溶かしてしまう計画が練られたとか。なんともおぞましい話で、こうして書いていても気味が悪い。でも、この溶液が、映画では重要な道具になってんだよね。

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街の灯

2007年01月09日 12時07分15秒 | 洋画1891~1940年

 ◇街の灯(1931年 アメリカ 37分)

 原題/City Lights

 製作・監督・脚本・編集・作曲・主演/チャールズ・チャップリン

 音楽/アルフレッド・ニューマン チャールズ・チャップリン

 出演/ヴァージニア・チェリル フローレンス・リー

 

 ◇「you?」

 花売り娘ヴァージニア・チェリルの最後の台詞は、ぼくたちは「貴方でしたの?」っていう字幕で出合った。

 たぶん、小学校のときに観たのがいちばん最初だろう。それから何遍も観る機会はあったけど、活弁つきで観たのは、これが初めてだ。無声映画が活弁にかぎるかどうかはよくわからないけど、観て損はない。

 で、初めて知った話。ヴァージニア・チェリルのその後のことだ。

 他界したのは1996年なんだって。それも88歳だったそうで、この映画を撮影したときは、21~22歳の頃だったらしい。そもそもヴァージニアは19歳のときにチャップリンと契約したようで、20歳のときに『街の灯』の主役に正式に決まったものの、ヴァージニアの品行が良くなかったのか、それともお互いに虫が好かなかったのか、21歳のときに撮り始められたものの途中で中断し、紆余曲折あって22歳のときに撮影が再開され、ようやく完成した。

 封切はその翌年だから、この映画は足掛け4年で陽の目を見たことになる。いや、まあ、当時としてはどえらい大作じゃんか。なんで、たった37分の無声映画の撮影にそんなに懸かったのかといえば、ヴァージニアとチャップリンとの仲がぎくしゃくしていたせいみたいだ。この製作秘話を、なんでハリウッドは映画化しないんだろう?

 すればいいのにね。

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黒い画集 あるサラリーマンの証言

2007年01月08日 12時51分31秒 | 邦画1951~1960年

 ◎黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960年 日本 95分)

 監督/堀川弘道 音楽/池野成

 出演/小林桂樹 中北千枝子 原知佐子 織田政雄 西村晃 平田昭彦 中丸忠雄

 

 ◎さすが橋本忍

 回想が始まった時、おもわず、お得意の展開だな~とおもったけど、ほんと、物語作りの上手さは流石だ。

 若き日の西村晃がいかにも刑事臭くて、ぎらぎらしてて好い感じだし。とはいえ、なんとも内臓をえぐられるような話の中身。ほんとに松本清張という人は、人間の裏側をとらえることに卓越してる。

 高度成長期、中堅企業に勤め、ようやく課長になったサラリーマンにとって、ようやく買い求めた一戸建てと糟糠の妻、そして可愛い愛人は、なにものにも替え難いものだ、というのが映画の前提になる。1960年代の日本は、まさしくそうだろう。

 愛人のアパートがある新大久保に通い詰め、たまさか、近所に住んでいる保険外交員とすれちがい、会釈してしまったことで、外交員がとある殺人事件の容疑者になったとき、アリバイの証人に立たされるんだけど、新大久保で出くわしてしまったため、証言すれば身の破滅だとおもいこみ、会っていないと嘘をついたことから、雪崩が起きるような転落が始まる。

 誰もが自己防衛に走り、おのれの利益だけをわがままに追い求める。それが重なり合うように衝突して、なにもかも失くしてゆくという構成は、胃が痛くなるほど現実味を帯びてる。松本清張は短編が映像化されたこの作品を絶賛したそうだけど、それはなんといっても橋本忍の手腕だよね、きっと。

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ジキル&ハイド

2007年01月07日 13時18分26秒 | 洋画1996年

 ◇ジキル&ハイド(1996年 アメリカ 108分)

 原題/Mary Reilly

 監督/スティーブン・フリアーズ 音楽/ジョージ・フェントン

 出演/ジュリア・ロバーツ ジョン・マルコヴィッチ グレン・クローズ ジョージ・コール

 

 ◇1886年1月、ジキルとハイド、出版

 正確にいうと、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが『ジキル博士とハイド氏』を書き上げたのは1885年で、その翌年、出版されたんだと。ただ、スティーヴンソンが最初に書いた原稿は、妻の「おもしろくない」というひと言で焼き捨てられ、たった3日で書き直され、それから10週間後に出版されたってんだから、なんとも劇的な展開もあったものだ。むろん、それが世界的に名を知られ、いまでは、解離性同一性障害の代名詞になってるくらいだから、どれだけ当たったかは空恐ろしいものがある。

 けど、この小説が普通の二重人格とちがうのは、性格はおろか姿かたちまで変化してしまうってことで、だから、モンスター物として扱われるようになったんだろうけど、この映画は、どちらかといえば、モンスター的な要素は成りをひそめ、メイドのメアリーの恋心を中心に描かれてる分、ちょっと違う。

 とくに後半、グロテスクなスペクタクルを予想していたのと、ジキルの狂気が凄まじく発露されるかと想っていたら、あにはからんや、ヴィクトリア朝のきわめてありきたりな恋愛物に仕上げられてた。それが原作の持っているそもそもの要素で、これまでの「ジキルとハイド物」と異なるところなんだろうけど、ジョン・マルコヴィッチの熱演ぶりは理解できるものの、ちょっと空回り気味で、大鰻と鼠は、こりゃ、まじにいただけない。映画の中でいちばんグロテスクだったわ。

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人でなしの恋

2007年01月06日 13時15分11秒 | 邦画1991~2000年

 △人でなしの恋(1995年 日本 86分)

 監督・脚色/松浦雅子 音楽/中村幸代

 出演/羽田美智子 阿部寛 岡田栄次 加藤治子 竹中直人 藤田敏八 入江若葉

 

 △時代は移り変わるもので

 小説というものをほとんど読まない僕は、たぶん、生まれてから今までに読んだ小説の数だったら、ほぼ数えられるだろう。

 推して知るべしの量だけど、そんな僕ながら、江戸川乱歩の作品は別格で、なんでかわからないけど、網羅した。小学4年の5月、生まれて初めて『青銅の魔人』を読んで以来、中学3年まで、ほとんど毎日のように読み狂ってた。小学校時代は少年探偵シリーズだった。

 大人向けの作品に手を染めたのはたぶん中学に入ってからで、いちばん最初に読んだのは『パノラマ島奇談』だったんじゃないかな。もしかしたら『孤島の鬼』だったかもしれないけど、ともかく、講談社の黒地に金文字の箱に入れられていた乱歩全集は当時の僕の宝物で、書いてあることを理解していたとはとてもおもえないんだけど、とにかく現実から逃避するようにして読み耽ったものだ。

 だから『人でなしの恋』を読んだのは、たぶん、中学2年のときだったろう。読み飛ばしていた時代だったから、人形を愛するという行為がどんな精神性なのか深く考えることもせず、ただ、ふ~ん、人形を好きになるんだ~とだけ、ぼんやりと感じてた。でも、今の時代、フィギュアを愛している人達は少なくないだろうし、球体間接人形とかに至っては「こりゃ、恋の対象となるかもしれん」とまでおもったりする。

 ということでいえば、乱歩は100年も前にそんなことを考えていたわけで、当時としては人でなしの行為だったものが、現代ではかなりフツーだ。さすが乱歩だわ~とか感心しちゃうんだけど、そういう感覚になってる今、よほど上手に撮らないと、ヒロイン京子の驚愕と嫌悪はわからないし、それでも夫の門野を愛してしまう自分が辛く、しかし満足できるという、なんとも哀しい世界は伝えられないかもしれないね。

 ちなみに、スタッフを見てみると、女性が少なくない。ということは、若手の女性たちが佐々木原さんたちベテランに肩を借りて、また、当時若手だった役者さんたちを起用して取り上げた小品だったのかな?習作って感じなのかしら?

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黒い十人の女

2007年01月05日 13時10分32秒 | 邦画1961~1970年

 ◎黒い十人の女(1961年 日本 103分)

 監督/市川崑 音楽/芥川也寸志 

 出演/岸恵子 山本富士子 岸田今日子 中村玉緒 宮城まり子 船越英二 伊丹十三

 

 ◎青き鬼火の淵

 妻のほかに10人の愛人をつくるなんてことは、ふつう、できない。

 よほど女にもてるか、よっぽど大金持ちか、ものすごくあくどいか、どれかだろう。

 ぼくはどれでもないから、

「ほう」

 としか感想のいいようがない。

 けど、2002年に市川崑みずからリメイクしているところをみると、崑さん自身、かなり気に入っていた作品だったんだろう。

 まあ、10人の愛人なんてのはカリカチュアしすぎな感じもするけど、それくらいなことをしないと、とっぱずれた面白さが失せる。たとえば、6人や7人の愛人とかいわれても嘘っぽいし、4人だの5人だのといった数だと中途半端だし、2人とか3人とかいうとなんだか生臭くなるし、結局のところ、きりのいい10人の方がとっぱずれてるし、女にちょーだらしない主人公の人間性がかえってよくわかるし、 同時にここまでやると憎めなくなる。

 船越英二という役者さんは、こうしたところ、実によく似合う。気が弱くて、女に優しくて、頼りなく、母性本能を刺激する。ぼくはこの映画は喜劇と捉えてるけど、ほんと、ちょっとばかり棘のある喜劇にはもってこいの男優さんだ。この人が、10人の愛人どもから殺されるのではないかと妄想し、怖がった果てに、どうしたらいいのかを女房に相談し、狂言殺人を考えてもらうっていうんだから、適役だろう。

 だけど、岸恵子と山本富士子という男顔負けの凄女が、そんな狂言に乗っているだけじゃ面白くないわけで、もちろん、船越英二も知らないどんでん返しは用意されてる。こうした展開の妙は、さすがに和田夏十の脚本は凄い。

 ところで、ぼくの好きな映画に『八つ墓村』がある。そこの音楽に『青き鬼火の淵』とつけられたものがあるんだけど、なんとびっくり、TV局の屋上の場面で、そのモチーフが流れるんだ。

「なるほど、芥川也寸志はここで使用した楽曲を忘れず、常に研磨し、ついに『八つ墓村』で完成させたのね」

 てなことを、おもった。

 けど、当時、こういう映画音楽の使い方、また研磨の仕方はよくあることで、実をいえば、あまりめずらしい話じゃない。

 めずらしいかどうかはわからないけど、岸恵子という女優さんの喋り方は、すごく特徴的だ。上品なのだろうけど、口元の開き方と発声と抑揚が、余人とは違う。ところが、この映画のときは、まだ特徴的じゃない。

「へ~、いつから変わったんだろう」

 とおもったものの、どこにも答えはなかったから、岸恵子の出演作品を片っ端から網羅するしかないってことに気づき、やめた。

 

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欲望(1966)

2007年01月04日 13時05分28秒 | 洋画1961~1970年

 △欲望(1966年 イギリス、イタリア 111分)

 原題/Blowup

 監督/ミケランジェロ・アントニオーニ 音楽/ハービー・ハンコック

 出演/バネッサ・レッドグレーブ サラ・マイルズ ジェーン・バーキン デヴィッド・へミングス

 

 △そして自分もいなくなった

 不条理、あるいは超現実を映像化するのは、当時の流行だったのかな?

 ぼくが大学のときもそうだった。難解な映画を観るという行為そのものが大学生の映画の見方みたいな風潮があって、ぼくも片足を突っ込んでいた。どれだけ小難しく、シュールっぽく撮られているかで、その映画の面白さを、薄暗い喫茶店や居酒屋で語ったりしたものだ。

 まあ、それが青春ってやつのひとつの象徴なのかもしれないけど、そんなとき、たいがい挙げられるのが、この『欲望』だった。知り合いの中には、この映画に影響されたものか、羽根のないバドミントンをする場面を入れた自主製作作品を撮ったりした。それほど、当時の映画好きな大学生にとって『欲望』は重要な映画だった。

 じゃあ、内容をしっかりと理解できたのかといえば、それは怪しい。

 この世に存在するものは、おそらく実体と非実体に分けられるんだけど、通常、実体の世界にいる人間、たとえば写真家のように、実体を被写体として捉えている人間は、見えているものしか信じず、いいかえれば、実体を実体として捉えることはできるけど、非実体を実体として捉えることはほぼ不可能で、むろん、非実体の世界があったとしても、それを捉えることなど出来ない筈が、ある瞬間、たとえば公園とかにカメラを抱えて出かけた際、もしも非実体を自分の目で観てしまったらどうなるだろうか?

 非実体の世界に片足を突っ込んだことになり、撮った写真を現像してみれば、自分の目が捉えていたのは、非実体の男女の睦み合うところだったにもかかわらず、実際にはそこに惨殺された死体が転がっていたという残留思念を撮影しており、しかし、これを撮影できること自体、非実体の世界に片足いれた証拠になる。

 やがて非実体の世界からお呼びが掛かり、つまり、非実体の女が、実体の世界にあってはならない写真を取りにやってきて、彼女の写真を、よりにもよって裸体を撮ることにより、いっそう非実体の核に触れるという結果を導き、それがために非実体をより多く感じるようになり、たとえば、白塗り非実体人どもがテニスに興じるところを捉えられるようになり、ありもしないボールを(あるいは、もしも非テニスが、過去、現実にあったテニスだったとするなら、かつてあったであろうボールを)自分が追いかけることで、その非実体の世界に完全に両足を突っ込んでしまったがために、自分もまた実体の存在する世界にはいられなくなり、非実体の世界へと移動させられてしまうにちがいない。

 で、その実体と非実体ってのがなにかっていえば、この世とあの世。つまり実体と非実体ってのは、生身と幽霊ってことになるじゃないのかな~って話だと、当時のぼくは考えていたし、いまもそんな感じじゃないかな~とおもってる。

 まちがってるかしら?

 だとしたら、いまだに修行が足りませんな。

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真夜中の招待状

2007年01月03日 12時59分35秒 | 邦画1981~1990年

 ◇真夜中の招待状(1981年 日本 125分)

 監督/野村芳太郎 音楽/菅野光亮

 出演/小林麻美、小林薫、芦田伸介、高橋悦史、藤田まこと、渡瀬恒彦、丹波哲郎

 

 ◇夢は殺しの調べ

 記憶が錯綜してて、たしかなことはわからない。

 銀座の並木座だったとおもうんだけど、この映画の予告編を観た。邦画屈指の予告編だと、いまもぼくは信じてる。ふしぎなのは、この映画が並木座で掛かったとはおもえないことと、本編を並木座で観た記憶がまるでなく、松竹系の劇場で観たような気がすることだ。で、何年ぶりかにまた観たんだけど、人間のあいまいな記憶につけこむサブリミナルの話が絡んでた。

 実際、当時この映画にはコーラ会社のサブリミナルが隠されてたらしい。通常、ぼくは24分の1コマであっても見逃すことはまずないんだけど、それはまったく気づかず、かわりに無性に煙草が喫いたくなった。サブリミナルの話をしているとき、うまそうに喫煙する場面があったからだ。なるほど、これがサブリミナルかとおもった。

 ま、そんなことは蛇足で、映画のことだ。

 予告編同様、前半はのめりこまされるような面白さで引っ張られる。なにが面白いって、予知夢の話だからだ。

 遠藤周作という人は、ときどき、興味深い推理小説を発表する。この原作は読んでいないからなんともいえないけど、導入部分はあまり変更されていないだろう。浮世離れした美しさの小林麻美の婚約者が、とある恐怖に包まれてる。婚約者小林薫はとある旧家の養子で、何不自由ない四男坊なんだけど、兄弟が三人とも、6月から8月にかけて、つぎつぎに行方不明になる。それも、毎月15日になると姿を消すらしい。

 当然、小林薫に、自分も姿を消すのではないかという恐怖が生まれる。果たして、小林薫は9月15日に姿を消した。そこで、小林麻美の婚約者を探す旅が始まる。小林薫は夢を観ていた。頼りになるのは、その夢に観る風景だった。また、次兄の写真に薄気味悪い老人が写っていた。さらに、長兄の描いた絵にも同じ老人が描かれていた。疾走の謎を解く鍵は、夢の風景と奇妙な老人だ。

 やがて、その風景は熊本に現実に存在することがわかり、小林麻美は一路、熊本へと向かうという興味をそそられる前半が展開する。とはいえ、こうした展開は、ときおり他の映画でも使われる手法で、たいがい、夢や幻や幻聴や記憶の断片は凄まじく面白いんだけど、謎が解明されてゆくにつれ、なんだそんなことかっていう失望感が生まれるんだ。

 原作と比べるのは好きじゃないけど、遠藤周作の原作はどうやら戦争が絡んでいるらしく、都会派ファッショナブル推理劇には似つかわしくないため、この映画のような熊本の城めいた旧家と、トンネルをくぐってゆく幻想的な鉄道が選ばれたんだろう。

 ところで、小林麻美がひとり看板の主演作品というのは、この映画がただ一本だけだ。松田優作と共演した『野獣死すべし』はあくまでもヒロインで、そういうことからすれば、記念すべき作品ってことになるよね。

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鑓の権三

2007年01月02日 12時55分59秒 | 邦画1981~1990年

 ◎鑓の権三(1986年 日本 126分)

 監督/篠田正浩 音楽/武満徹

 出演/郷ひろみ 岩下志麻 火野正平 田中美佐子 水島かおり 三宅邦子 大滝秀治

 

 ◎虫籠窓の情事

 宮川一夫が作品の全カットを撮影したのは、たぶん、これが最後なんじゃないだろうか。『浪人街』は撮影協力だったし『舞姫』はユルゲン・ユルゲスと組んでるんで。で、そんなことをおもって画を観ると、いやもう、美しい。権三の衣装はすこしばかり派手すぎるものの、いかにも爛れはじめた諸藩の雰囲気が出ていていいし。くわえて岩下志麻の綺麗なこと。だけど、それが余計に徒になってしまってる感もないではないかも。

 それはともかく、近松の世話物浄瑠璃を映像化するとかいうことは、この先、あるんだろうか。文化ってのは継承されてこそ文化だとおもうんだけど、能や狂言、浄瑠璃や歌舞伎とかいった観客の限られてるものを、この先、どんなふうにして全国一斉封切させていけるんだろう?

 話についていえば、茶の湯がきっかけの道行話だ。娘を嫁がせたいとおもっていた鑓の名人権三との間に、不義密通の汚名を着せられた母親が、権三と駆け落ちし、やがて追い詰められて初めて肌を交わす。けど、やがて権三ともども京の橋の上で最後の大立ち回りをすることになるっていう悲恋物だ。けど、この大立ち回りにいたるまで映像が流れるように美しいものだから、ついつい、演技や話よりも画面やロケ地に興味が傾いちゃうんだよね。

 あ、それと。

 篠田組といえば『心中天網島』なんだけど、この『鑓の~』は、かつて『心中~』が作られて日本のヌーベルバーグといわれた時代のように才気走った感じはなくて、なんともオーソドックスに作られてる。ま、それもあって、なんとなく肩透かしを食らった観は否めないかもしれないね。

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