△四月物語(1998年 日本)
ぼくは、いまでも後悔している。
大学に入って決めた下宿の場所について、だ。
なぜかっていえば、大学から遠かったからだ。
なんせ、2回も乗り換えなくちゃいけなかった。
まあ、いろいろ理由があってそこにしたんだけど、
どうして、大学から乗り換え無しで済むところに棲まなかったんだろうって。
カルチャーショックとかはまるで受けなかったにしては、
ほんとに、とんまで、なんにも考えていなかった。
だから、できることなら、もう一度、やりなおしたい。
桜が満開か、あるいは桜吹雪の中、もう一回、上京して、
通学するにも、暮らしぶりにも、なにもかも便利な場所に下宿を選び、
もうすこし充実した大学生活を送り直したい。
でも、そんなことはできるはずもないんだけどね。
ま、叶えられない話はさておき、
なんとも懐かしさがこみ上げる映画ではあった。
でも同時に、なんとも自主製作映画っぽい作品でもあった。
1970年代の大学生の青春は、みんな、こんなもんだった。
大学生のつくる映画も、
この作品から玄人臭さを抜き取れば、こんなもんだった。
でも、
当時の大学生の作品はそれなりに見事なもので、
玄人はだしの作品はたくさんあった。
当時と今と違うのは、
ストーカーという言葉があったかなかったかというだけの話だ。
けど、まあ、そうした自主製作映画の話はさておき、
すなおでないぼくは、クソ意地の悪いことを考える。
この松たか子がどうしようもないへちゃむくれだったら、
(うわ、どうしよ)
っておもっただろ、田辺誠一。
田舎で、自分に憧れてるへちゃむくれがいて、
そいつが半年間も自分の住んでる武蔵野のことばかり考えて、
国木田独歩なんか読んじゃって、
現在の武蔵野がどんなところかもわからなくなった夢想の世界に嵌まり込んでて、
小金井公園や野川公園や武蔵野公園や井の頭公園みたいなところを想像して、
執念の塊になって武蔵野の大学を受験して、合格して、上京してきて、
殺風景なビルばかりの武蔵野の中で、
自分がアルバイトしてる本屋にまでいきなり現れて、
しかも偶然に雨まで降っちゃって、
さらに傘を貸してくれる優しいおじさんなんかが都合よく現れて、
恐ろしいことに、お情けに貸した傘を、じっとりと濡れたまま返しに来たりしたら、
(うわ、どうしよ)
とかおもうだろ、田辺誠一。
たまさか、松たか子がまったくストーカーらしくなく可愛い子だったもんだから、
おもわず鼻の下は長くなっちゃったりするけど、
これが見るからに危ない感じの隠々滅々のストーカーだったら、
どうするよ?
おっそろしいぞ。
自分に憧れて、死に物狂いで受験して、
お人好しの集団みたいな家族に見送られて、
ただひたすら自分とつきあいたいと熱望してる娘が、
予想もつかない状況下で、突然、目の前に現れてみろ。
そのへちゃむくれは、
次の日もまた次の日もさらに次の日も本を買いに来るぞ。
傘、返しに来るぞ。
大学でも逃げられず、社会人になっても追いかけられるだろうし、
ふったりしたら自殺しかねないし、たぶん押し倒されて結婚させられて、
それから先も、妄想嫉妬のかたまりになって束縛され続けて、
やがて年老いていくんだぞ。
どうするよ?
リリシズムとかいってる場合じゃないぞ。
(だって、松たか子だったら、いいじゃんか)
たしかに、そうだ。
それで、この作品世界は成り立ってるんだよね。