平成七年一月十七日、五時四十六分。今までにない長く激しい揺れが、寝床でおさまるのを待つだけだった。自宅の建物や棚・本箱・置物が倒れることはなく、テレビ報道も震度4~5度程度であった。震源地とは、5~60kmも離れているので、大きな被害はなかった。被害が大きかった神戸の状況は、当初不確かで、かつてない大災害になるとは予想もしなかった。通常通り六時半には、家を出て会社に向かうが、JR/近鉄が動いていないということで引き返し自宅で待機していた。八時には、新しきメンバーを迎えるために、会社の会議室で落ち合う約束をしたのが気になったが、仕方なく、電車が動き出して、ようやく会社についたのが十時を過ぎていた。それからは、仕事どころではなく、社員の安否確認、神戸方面への物資運搬、を社員で手分けして行った。友人の確認が1週間過ぎても取れなかったが、ようやく連絡がついて、わかった時には、みんなで拍手したのを覚えている。但し、後ほどわかるのだが、家屋の全半壊は少なくなかった。会社の自職場も、当初は大きな被害を受けなかっと思ったが、時間がたつにつれて柱や壁のひび割れ、機械類の損傷もわかり、また他の職場での建物・工場、家庭においては、多くの被害を受けたのは、予想以上であったことは言うまでもない。
二十年たった本日、朝から、ラジオやテレビで、あれから二十年の番組を特集しているが、当時の録画、そして鮮明に覚えている神戸長田区の母の死を実況中継的に知るあのお兄さんが二十年たち、テレビに登場したのには、驚いた。生死を分けた真実のことをことを知り、ぐ~っとくるものがあった。人間の運命とは、生かされている道とはなど、大いに考えさせられる一日であった。それから、十六年、東日本大震災。日本は、地震災害に襲われるのが当然のような大陸地形。しかし、生き残れるための知恵や工夫努力はあるものであり、できるものである。希望は失いたくない。
二十年たった本日、朝から、ラジオやテレビで、あれから二十年の番組を特集しているが、当時の録画、そして鮮明に覚えている神戸長田区の母の死を実況中継的に知るあのお兄さんが二十年たち、テレビに登場したのには、驚いた。生死を分けた真実のことをことを知り、ぐ~っとくるものがあった。人間の運命とは、生かされている道とはなど、大いに考えさせられる一日であった。それから、十六年、東日本大震災。日本は、地震災害に襲われるのが当然のような大陸地形。しかし、生き残れるための知恵や工夫努力はあるものであり、できるものである。希望は失いたくない。
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