京田辺『普賢寺谷』は「越前の朝倉義景の一乗谷」に似ているのではないかとごく少数であるが言われてきた。勿論、市民のほとんどは知らない。南山城のこの一帯が、南北朝時代、応仁の乱、山城國一揆と続いて、権力者にいかに翻弄されたかと思うと、地元の人々の暮らしの不安定さや貧困さが瞼に浮かんでくる。是非、その実態を知りたく思い、少しづつ調べている。しかし、一乗谷のような建物や遺構がほとんど残っておらず、以前に市が調査したもの程度である。もちろん観光用に整備する行政や団体の意向など聞いたことがない。だからこそ、まずは、市民にこの実情をお知らせしたく、11/30のつつきはっけんでは、多数ある中世館をご紹介、ウォークガイドする。普賢寺谷のスケールの大きさ、勇気ある地侍の戦い、これらのことが戦国時代の信長に攻められるまでに繋がっていくことが徐々に判ってきた。まさに、新たな観光資源として有力なもののひとつである。市民参画の産業振興面での取り組み部隊があるようであるが、文化振興や観光関連のお偉方に発信していかなくてはならない。
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