江戸中期の絵師、伊藤若冲が晩年、数年間、普賢寺の公家谷(こけだに)に住んでいました。
■京都錦小路の青物問屋『枡源』の長男として生まれ、4代目を継ぐ。
■20歳後半から家業の傍ら、絵を描き始める。 40歳で弟に家業を譲る。
■最初は、狩野派、次に中国絵画の模写、実物(鶏をはじめとする動物や植物)を写生、
独自の世界を構築(墨絵、障壁画)。
■生涯独身、酒も飲まずに、人付き合いが苦手、書も苦手、無趣味、無芸。
■晩年、公家谷に住む。よれよれの帯、ひげぼうぼうの風貌。
米一斗で絵画と交換したので、その住まいを「斗米庵(とべいあん)」と呼ばれた。
■普賢寺の二家で保存されていたというが、・・・。
『動植綵絵(さいえ)』をモチーフとして、生物のあらゆるものを精緻に鮮やかに描いた絵画は、まさに神技。
鳳凰の金色を出すのに、白、黄に合わせて黒を裏から描く、雪の積り具合を出すのに白を盛り上げ、降るさまの遠近感を出すのに、裏から墨を塗る裏彩色は、全くの独自で生み出したもの、本当に、絵画の世界に吸い込まれる錯覚が起きるようである。
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