沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

座喜味城跡

2006-11-05 | 琉球・首里城
読谷(よみたん)村の座喜味城跡(ざきみじょうあと)に行ってきました。
世界遺産です。 座喜味城跡 世界遺産

琉球王国は、1429年に、三山(北山、中山、南山)が統一され建国されました。
それ以前は、按司(あじ)と呼ばれる権力者が、群雄割拠していました。
中でも護佐丸(ごさまる)は有名な按司で、北山の今帰仁城を滅ぼすなど国家統一に大きな功績を残しました。

座喜味城は、15世紀初頭、護佐丸が築きました。
護佐丸は優れた築城家といわれています。
城作りの人集めは強引だったようで、近隣の島々では、泣く子供に「護佐丸が来るぞ。」と泣き止ませたそうです。

樹木に囲まれた小高い丘の上に城はありました。
東シナ海が、よく見えます。
ここに城を築いて、北山や中山の動きを眺めていたんだなあ。

城の周辺は、景観に配慮した街づくりをしています。
静かで落ち着きのあるところです。
残波岬や琉球村の近くですが、ガイドブックにもあまり掲載されておらず観光地化されていないみたいです。

首里城祭・王朝絵巻行列

2006-10-30 | 琉球・首里城
日曜日、那覇市の国際通りで、琉球王朝時代の行列を模したパレードがあった。
先頭は唄と三線。ゆっくりとした歩みと音色が歩行者天国の国際通りを静かに進みます。

続いて、国王と王妃。一般公募でなかなかサマになっています。


ここからが、中国からの使者です。
ちょっと雰囲気が変わります。
粛清(静粛に?)、回避、清道などと書いてあります。
静かに、道を明けなさい、道をきれいにしなさいということかなあ。

しかも武器も持ってます。
隣で楽しげに見ていた子供も、恐ろしげな武器に、怪訝な声を上げていました。

冊封使(さっぽうし:中国からの使者)が乗っています。

琉球国王が交代した時に、中国から使者がやってきて、首里城で「汝を琉球国王に任ず。」と中国語で読み上げる儀式がありました。
これによって、琉球王国は中国との朝貢貿易が可能となり、経済は大きく発展できました。琉球にとって、大切な儀式でした。
関連記事 琉球王国

東御廻い(あがりうまーい)(4)

2006-10-12 | 琉球・首里城
12番目は「浜川御嶽(はまがーうたき)」。アマミキヨが仮住まいした土地らしい。
ヤハラヅカサの近くにあり、泉が湧き出ています。

13番目は「ミントングスク」。民有地なので中に入れません。

最後の14番目は、「玉城グスク(たまぐすくぐすく)」。国指定文化財。

グスクを繰り返す理由はなんでしょうね。
「たましろグスク」というなら、わかるけど…。
豊見城市も、今じゃ「とみぐすく」市なんだよね。

この並木を登っていきます。結構急な山です。

高台の頂上に本丸の城門があります。琉球石灰岩をくりぬいて造った珍しいものです。
琉球国由来記にはアマミキヨが築いたとされ、琉球最古の城跡とされています。
写真は、城内から外を見たものです。

城内はこんな感じです。石はかなり持ち去られたようです。

眼下に広がる風景です。久高島も見える位置です。
 
これで、東御廻いは一段落です。
難しい話を読んでいただき、感謝です。

東御廻い(あがりうまーい)(3)

2006-10-11 | 琉球・首里城
次の場所は8番目。「知念(ちねん)グスク」で、国指定文化財です。
このアーチ門の切石積みは、琉球王国第3代の尚真王の時代に造られたといわれています。

発掘調査中の手作りの看板。
石垣が崩れた跡もあった。昔の技術で補修しなくてはいけないから大変だよね。


次は9番目の「知念大川(ちねんうっかー)」。知念グスクから西へ下ったところにある。湧水が流れている。アマミキヨが天から稲を持ち帰り、この水を利用して稲を植え、稲作発祥の地とされる。10番目の場所と同じ趣旨です。


10番目の「受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)」。
ここも湧水が流れていて、琉球での稲作発祥地といわれている。その稲をもたらしたのは、アマミキヨと稲穂をくわえた鳥の二つの説があると表示しています。

9番目と10番目は、稲の発祥地として、知念村と玉城村で競っていたけど、今じゃ合併して南城市。どうなるんだろーか。



次は、11番目「ヤハラヅカサ」。
琉球の先祖神アマミキヨが上陸した場所と伝えられています。 

干潮時には直ぐ近くにまで行けて、満潮時には海中に水没するらしい。

東御廻い(あがりうまーい)(2)

2006-10-10 | 琉球・首里城
7番目の場所は、「斎場御嶽(せーふぁうたき)」。国指定文化財で、世界遺産にも登録されています。
沖縄最高の聖地とされ、琉球の創世神アマミキヨ(アマミク)が、創ったといわれています。 斎場御嶽

この大きな切り石は、「三庫裏(さんぐーい)」と呼ばれ、斎場御嶽のシンボルです。
洞門の奥から、光が射し込み、風が流れてきます。

洞門の先は、狭い空間ですが、遙拝所(ようはいじょ)になっています。
ここからは、遠方に、久高島と海を拝むことが出来ます。
久高島は、琉球の国造りにちなむ神話や神の島として知られています。この偶然とは思えない岩石の形や配置が、神が造ったといわれる由来でしょうか。

また、「大庫理(うふぐーい)」と呼ばれる場所もあります。
ここは、聞得大君(きこえおおきみ)が即位する儀式の際の祭場です。
聞得大君は、琉球国の最高神女で、王の姉妹や母が王により任命されました。
大庫理とは、大きな部屋の意味です。

ここは、「寄満(ゆいんち)」と呼ばれるところ。
三庫理、大庫理、寄満は、同じ名称の場所が首里城内にもあるので、この場所は王権と深い関わりがあった、といわれています。

三庫裏の近くに、岩から垂れた鍾乳石が二つあります。
その下には、鍾乳石から滴り落ちる水を受けるように壷がおかれています。
この水滴は、天から流れてくる霊水とされ、御水(うびぃ)と呼ばれ、聞得大君の御水撫で(うびぃなで)に使われ、再生の効果があると信じられたそうです。
御水撫では、水の入った器に中指をひたし、額を三回撫でる呪法。

東御廻い(あがりうまーい)

2006-10-09 | 琉球・首里城
琉球王朝の原点とロマンを訪ねる旅。それが東御廻い。東御廻いの概要とコース

沖縄の祖先といわれる”アマミキヨ族”が渡来して住みついたと伝えられる知念、玉城の霊地など14箇所を巡拝するもので、伊勢参りや四国八十八ヶ所参りみたいなもの。
琉球国王は、550年前、最高位神女の聞得大君(きこえおおきみ)とともに巡礼したらしい。

第1番目の箇所は、首里城の守礼門(しゅれいもん)のすぐ先にある  園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき) 。国指定の文化財で、世界遺産にも登録されています。

沖縄の言葉は読み方が一見難しいのですが、原理を聞くと母音の、あいう「えお」が、あいう「いう」に変化。したがって、「そ」「の」ひゃん「お」たきが、「す」「ぬ」ひゃん「う」たきになります。また、「東」と書いて「あがり」と読みます。それで、東御廻いが「あがりうまーい」になります。簡単ですね。寿司屋じゃないよ。
御嶽(うたき)とは、地域にある聖域で農耕、漁労、狩猟の儀式など神祭事が行われ、信仰の対象になります。

ここは、国王が旅に出るときに、旅の安全をお願いした場所で、東御廻いの第一番目の拝所です。
写真のように、座ってお参りする高齢者をよく見かけます。

御殿山、親川、場天御嶽、佐敷グスクは、またの機会に紹介します。

第6番目は、知念岬の少し北側にある「テダ御川(てだうっかー)」。太陽神が降臨したとされる聖地です。
国王が、聖地である久高島へ船で参拝しに行くときに、この場所に船を停め、航路安全の「おもろ」を謡ったそうです。
おもろとは、沖縄方言の「思い」から来た語で、14世紀以前の沖縄の古い歌謡をいいます。

サンゴのリーフがゴツゴツあるので、小船じゃないとここまで近づけないです。
リーフから外へ出ると黒潮の潮流にぶつかるので、久高島へ行くのも結構大変だったのかなあ。当然、手漕ぎだし。

今では、近くの灯台が航路の安全を守ってくれます。シーサー君も座っています。
シーサーは、スフィンクスや狛犬と同じく、源流は古代オリエントのライオン。名前は「獅子(しし)」を琉球語で発音したものだそうです。

首里城で中秋の宴

2006-10-07 | 琉球・首里城
旧暦の8月15日にあたる昨夜、首里城で琉球王朝時代の古典舞踊が行われた。
3部で2時間30分の演目なのに、入場料は無料という驚き。
開始直後の雨で中断し、心配したが、秋風が雲を動かし再開された。
やがて時間の経過とともに、美しい満月が首里城正殿(しゅりじょう・せいでん)の上に姿を現した。

古典舞踊 とは、18世紀頃、中国から来た冊封使(さっぽうし)を歓待するために創作された舞踊。
冊封使とは、琉球国王の交代と即位を、中国の皇帝が認めるために派遣した使者。

中国の属国となることで、中国皇帝への貢物を贈る代わりに中国の特産品を入手でき、日本などに貿易し、琉球王国の暮らしを豊かにした。
当時の明は、鎖国政策のように民間貿易を禁じていたので、国家間の貿易は重要であり、冊封使の数ヶ月間の滞在を歓待することは、琉球国にとって大切な儀式だった。

いつもは劇場で上演されている古典舞踊が、300年近く前の時代と同じように、首里城で行われた。 

国歌安泰、長寿を歌う老人踊り、少年の幸先きを喜ぶ若衆踊り、女の情念を表現する女踊り、青年の前途を祝福する二才踊りなどがある。
三線、太鼓の演奏と唄が、素晴らしい。
観客は、高齢者が多った。外国人も数多く見られた。

こちらは 組踊(くみおどり)という音楽劇。勧善懲悪物が多く、能や狂言の影響を受けているらしい。
二童敵討 (にどうてぃちうち)」は、250年前に上演されたもの。国の重要無形文化財指定。
古典音楽、古典舞踊、沖縄の方言が凝縮された芸術だ。
動・静・動の3幕で1時間。敵討ちに向かう子と母の別れを、唄で表現する第2幕は、母の表情が切なくよかった。
敵役の阿麻和利(あまわり)の動きの変化が見せどころらしい。

21時まで十分楽しめた。
2日目(10月7日)は人間国宝が4人も登場して競演するらしい。

琉球王の碑

2006-08-30 | 琉球・首里城
首里城の守礼門の傍に、1522年に建立された石碑が2つあった。
戦争で焼失していたが、このたび関係者のご尽力により、首里杜館前広場に再建されたと聞いて、行って見ました。

こちらは、国王頌徳碑(こくおう・しょうとく・ひ)。
漢文で書いてあります。当時は東アジア地域の共通語は漢文だったそうです。
王などの位の高い人物が死ぬと、身近な家臣も殉職する風習は世界で多く見られます。日本でも明治まで続いたそうです。

第3代琉球王の尚真尚真王は、自分の母が亡くなったときに、「殉死の風習は人間の行うべき道ではないとして禁止を宣言」しました。
この碑は、そうした王の仁徳を称えたものです。


こちらは、眞珠湊(まだま・みなと)碑文(ひもん)です。
当時の日本は応仁の乱があった頃で、統治が乱れており、倭寇とよばれる海賊が財産や人をさらったので恐れられていました。
尚真国王は、もし倭寇が那覇港に襲来したら、首里城から直ぐに軍を送れるよう那覇港まで軍用道路をつくったそうです。
この碑文はそのことを称えています。
こちらは、ひらがなを交えて書かれています。

琉球王国の政治の一端を垣間見ることが出来る碑です。
また、琉球王国が、中国と日本の両方の影響を受けていたことが伺えるものです。

琉球王国の家

2006-08-24 | 琉球・首里城
海洋博公園の中に、おきなわ郷土村というのがあります。
琉球王国時代の家や与那国の家など、おきなわの昔が復元されています。

これが琉球王国時代の家。
外は暑いのに、中は驚くほど涼しい。材料は自然素材。床が高く風通しがよい。合理的だね。
今はエアコン装備のコンクリートの家が多く、こうした家は全く見かけないけど。
台風の風を抑えるフクギという防風林も家の周囲に植えられています。
ちょっと心配だけど、快適ですよ。

絵本で読んだ「三匹の子ぶた」を思い出します。
家を作れといわれて、兄達が早く簡単に作れるワラの家や木の家。末っ子が汗を流し長時間かけてレンガの家を作って、結果的に狼から3人兄弟を守った。
狼が「ふぅー。」って大きく息を吐いて、ワラや木の家を吹き飛ばす場面を、まだ覚えているけど、狼というのは台風のことだったんだろうね。
沖縄では、ワラから木の家へ、そしてエアコンつきのコンクリートの家に変化してしまった。
三匹の子ぶたの影響だろうか…。
三匹のこぶたー(イギリス)
【コラム】-三匹のこぶたにみる建築技術-200306

このほか、奄美、与那国など各地域の家が配置図や庭と一緒に再現されていて、結構楽しめます。

琉球王国

2006-07-29 | 琉球・首里城
1429年から450年間続いた琉球王国。
その王宮が首里城です。
海が見える丘の上にそびえる木造3階建ての建築物です。

室町時代、足利義満が日本文で琉球王に手紙を送ったということから、日本も琉球国を認識していた。
だけど、正殿は西(中国)方を向いており、国王の交代は中国からの使者の元で行うなど中国の支配下にあった。

中国は明の時代で、有名な海禁政策(民間の自由貿易を禁じ、皇帝のみの貿易とした鎖国のような政策)をとっていた。
朝貢(中国皇帝に貢ぐ)ができた琉球国はその立場を活かし、マラッカ王国(今のマレーシア)などの東南アジアや日本からの品物を中国へ売るとともに、中国の品物を日本へ売る中間貿易の海洋国家として、繁栄した。
軍を持つこともない平和な国だった。

その海洋国家としての熱い志が刻まれているのが、万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘で、1458年に国王が造らせて首里城正殿にかけた。

ーー琉球国は南海の景勝地にあって、朝鮮のすぐれたところを集め、中国と日本とは非常に親密な関係にある。
この日中の間にあって湧き出る理想の島である。
船をもって「万国の架け橋=万国津梁」となり、珍しい宝はいたるところに満ちている。ーーという趣旨が書かれています。


この明の海禁政策は、倭寇(日本人や中国人)という海賊を生む温床となっって、明はその取締りに手を焼くことになる。

やがて大航海時代になり、ポルドガルが種子島を訪れるようになり、ポルトガルは海賊(倭寇)を退治した見返りにマカオを手に入れた。
マカオが中間貿易の拠点となり、琉球王国は貿易国としての地位を奪われた。

さらに1609年、徳川家康は薩摩藩3000名の兵士の首里城侵攻を許し、琉球国は王室は続いたものの、日本の支配下にもなり、中国と日本に両属した。
また奄美諸島や与論島など琉球王国の領土が、薩摩藩の領地となってしまった。
1610年に、琉球国王は駿府城で家康に面会している。

そして1879年、中国との関係を絶つよう説得したものの応じなかったため、明治政府は軍隊を派遣して、沖縄県を設置した(琉球処分)。
王は、華族の身分となり琉球を追われ東京で暮らした。