沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

蔡温の松並木

2008-09-27 | 琉球・首里城
具志頭親方の蔡温(さいおん1682-1761)は、琉球を代表する役人、技術者といわれている。
名護親方の程順則(ていじゅんそく1663-1734)と同じように、中国に渡り学び、琉球の基盤を築いた。
蔡温は、中国で風水地理を学び、琉球の国土作りに生かした。
国王の命令を受け、10万人を動員し、氾濫する羽地大川(名護)をわずか3ヶ月間で改修し、羽地に豊かな水田地帯を作った。

風水地理は、気候、地形、水脈等の自然条件を読み取ってまちづくりに生かす都市計画で、台風や洪水などの自然災害から集落を守るためには欠かせない技術として広まり、多くの村落が風水地理に従い、将来の発展のために村落を移動した。

羽地内海の奈佐田川と屋部川を結ぶ運河を掘削して船の往来を便利にすることで、那覇港とともに大型船が入港できた運天港を生かすとともに、首里より平坦な名護の地形が国都にふさわしいとして、首都を首里から名護に遷都する思想があった。

これに対し、蔡温は国土は山脈が連なってできて理をなしており、丘を運河で断ち切ると山々の気脈が失われて国土維持に好ましくないと反対し、この旨を碑に記した。
今では、傍らにあるヒンプンガジュマルが国の天然記念物となり有名になっている。

その蔡温は、山原(ヤンバル)地方を数多く歩き、山の管理・育成に力を注いだ。
島国で資源の少ない琉球にとって、山に有用木を植林し船や家屋の建築材や燃料材をとして重要だった。

この階段、大木を避けるように、両側に分かれている。

樹齢200年はありそうな松が見えてきた。
蔡温は、村を守るためにマツ(松)を植え、屋敷を守るためにフクギ(福木)を植えることを推奨した。
蔡温松と呼ばれて、沖縄の各地に今も伝わっている。

整備された散策路を歩いて行くと、辺戸の集落に出た。
拝所(ウガンジョ)があった。

近くに、立派な拝所があった。
背後に、辺戸御嶽が望めるいい場所だ。

森の中に、赤い影。アカショウビンだと思う。
鳴くまでじっと動かずに待てば、鳴き声で確認できたのだろうが、いやな感じがして足元を見ると、やぶ蚊が3匹も足に張り付いていた。
足を叩いたら、やぶ蚊は退治できたが、アカショウビンらしき鳥は飛び去った。

早朝の集落を歩く。
共同売店には朝獲りの野菜が並んでおり、一仕事を終えたおじいやおばあがいた。
「おはようございます。」と挨拶をしながら通り過ぎる。

集落を抜けて、国道58号沿いの駐車場近くにある蔡温1号橋。
駐車場で、車に乗った年配の米軍カップルと出会うが、お互い、引き返す。

車を止めてある宇佐浜の駐車場まで、もと来た散策路を歩く。
蔡温松と辺戸御嶽のツーショット。いいね。

辺戸岬が見えてきた。
駐車場までもうちょっとだ。

下から、車が上がって来たので、避ける。
さっきの米軍カップルだった。
こっちはサンダル、向こうはジープ。
日曜の早朝に、琉球の歴史文化を尋ねてくる姿に、ちょっと感心した。

首里城書院・鎖之間庭園

2008-06-20 | 琉球・首里城
首里城といえば正殿が有名ですが、普段、国王や王子が仕事をした場所が書院・鎖之間(しょいん・さすのま)です。
発掘調査から始まり6年を費やして昨年1月に復元されましたが、このたび、庭園部分が完成間近です。
上の写真は、右側が書院で、奥が鎖之間。

琉球石灰岩の露岩に、ソテツやマツが植栽されています。
白と緑のコントラストが鮮やかです。

那覇市内を見渡せる、高さ130メートルの高台にある庭園です。
遠くに市内や那覇港が見えます。

建物側から、庭を見てみました。
国王の執務室、書院です。

書院と庭園です。
庭園の背景は、青い空なので、空中に浮かぶ庭園のようです。

右端は、特徴のあるマツです。
「蟠った(わだかまった)マツ」と中国から来た使者が書き記したものです。

戦火や大学建設で失われた一部の露岩は、明治時代の測量図や古写真を手がかりに、再現されています。
少し色がついている部分です。
風雨を受けて、次第に馴染んでいくそうです。

名護城跡

2008-03-29 | 琉球・首里城
春を探しに、名護城跡へ行って来ました。
ここは、城跡の手前にある山羊料理屋さん
ヤギさんがおいしいよ~と呼びかけています。

その東側は、オリオンビール工場。
工場見学してビールを頂こうかと思ったけど、石段登れなくなるよね。

名護城跡は、長い石段から始まります。
今まで、この石段を見て引き返していましたが、今日は違います。

桜が有名な名護城跡です。
もう、サクランボが出来ていました。

石段を登っていると、段数を数えたくなるんですよね。
節目に、数が記されていました。
親切だなあ。

450段ほど上ると小さな神社があり、先客が境内でお参りしていました。
少しお参りして、さらに上を目指すと、古い石段がありました。

石段を上がったところが、名護城跡でした。
うっそうとした森で、拝所がありました。
休憩所みたいだけど、ベンチがないので、拝所です。
森の中にも、お祈りする場所がありました。

城跡の森は、人の手が入っていない感じです。
樹上でガサゴソ、音がして、すぐ近くに何かが落ちてきます。

見上げて目を凝らすと、オオコウモリがビロウヤシの花を食べていました。

名護の街並みと名護湾が眼下に広がります。

夜の首里城

2008-02-24 | 琉球・首里城
夕方、時間がない中で、首里城を目指しました。
調べてみると、世界遺産の玉陵(たま うどぅん)が17時半までに入場可能。
首里城は18時までに入館可能なので、先に玉陵へ行くことに。

右の方の石版に、コウモリが描かれています。

首里城に18時半過ぎまでにいて、外に出ると、すっかり暗闇です。
正殿です。

「西のアザナ」(いりのあざな)からの夜景です。
那覇市外の夜景が美しいスポットです。(3月は19時まで)

ライトアップされた守礼門が美しいです。

旧博物館横から見た、龍潭(りゅうたん)池越しの首里城です。

玉陵(たまうどぅん)

2007-11-18 | 琉球・首里城
世界文化遺産の玉陵です。
1501年に国王の尚真が、第2尚氏の初代国王だった父親の尚円(伊是名島出身の金丸)を葬るため築き、以降第二尚氏王統の陵墓となりました。

この尚真王は、50年在位し、多くの功績を残しました。
・八重山の乱を鎮め、先島諸島や与那国島を琉球王国の支配下に治めた。
・首里城の回りに按司という各地の有力者を住まわせ中央集権化を図るとともに、港へ続く金城町の石畳道や円覚寺を造った。
・国王が死ぬと身近な人々も一緒に死ぬという習慣を止めさせるなど琉球王国の仕組みを整えた。
琉球王の碑

門をくぐると、石で構成された時代を感じさせる建造物です。

東室(左側)は国王や王妃が葬られていますが、上には獅子がいます。
拡大するとこんな感じ。何を持っているのかな。

石段の上にある石板に描かれた模様です。
コウモリみたいに見えます。
コウモリは中国では福を呼ぶとして大事にされていたようです。

ぶら下がっているのはオリイ・オオコウモリです。
本土に比べ、翼を広げると大きいので上空を飛ぶとびっくりします。
超音波を使わないので目が大きくカワイイです。

玉陵でも展示室のキャラクターとしていたようです。
最近、目の前の樹に住み付いてくれたので、歓迎して好物の果物をあげています。
フルーツが大好きなので、英名はフルーツバットです。

中城城跡(なかぐすくじょうせき)

2007-11-15 | 琉球・首里城
海水浴シーズンが終わった沖縄ですが、見所はたくさんあります。
世界文化遺産を見るのもいいものです。
首里(しゅり)城跡、今帰仁(なきじん)城跡、中城(なかぐすく)城跡、座喜味(ざきみ)城跡、勝連(かつれん)城跡は、三山統一により琉球王国が成立した1429年に前後して築城されたもので、世界遺産になっています。

中城城と座喜味城は、護佐丸が築城したもので、その美しさから人気があります。

勝連城の阿麻和利を見張るために、国王に命じられて、勝連城と首里城の中間に築城したのが中城城です。
聖なる島の久高島も、かすかに見えます。

曲がった城壁の方が強く崩れにくいと聞きます。
造るのは、大変でしょうけど、当時の技術力の高さが伺えます。

鳴いているのはクロイワ・ツクツクです。
ツクツクボウシの仲間ですが、数秒ごとに「ゲッ!ゲッ!」という短い声が2回入るのが特徴です。



中秋の宴

2007-09-29 | 琉球・首里城
今年も首里城で「中秋の宴」を見てきました。
9/28(金)、9/29(土)、9/30(日)の3日間、18:30~21:00まで入場料無料です。
オープニングは、お馴染み「四つ竹」。
紅型衣装に花笠を被り、手で四つ竹を打ち鳴らしながら踊ります。

続いて沖縄が誇る人間国宝の唄と演奏です。
照喜名朝一さんの「こてぃ節」です。
三線と声が首里城に響きます。


次は、組踊(くみおどり)「二童敵討」。
中城の護佐丸が、見張っていたアマオエに破れましたが、生き延びた2人の子供が母から父の懐刀を預かり、敵討ちをする話です。
歴史上の阿麻和利と護佐丸の戦いをヒントに作られたもので、中国の使者をもてなす宴で演じられたようです。
護佐丸を倒し、わが天下を豪語するアマオエ。

母から父の形見の懐刀を受け取り、母と別れる護佐丸の子供達。

原遊びでアマオエの前で踊り、油断したアマオエを倒す。

今夜は立待月。
2時間待って、正殿の上に、月が出てきました。
人間国宝が「十七八節」を演奏し唄います。


首里の散歩道

2007-05-19 | 琉球・首里城
下校中の小学生に道を尋ねた。「教会はどこにあるか知ってる?」
「知ってる。学校の反対側の坂の上にあるよ。」

「教会って何をするところ?」逆に聞かれた。
「お祈りをするところだよ。」「何にお祈りをするの?」
「神様だよ。」「神様って、どこにいるの?」
「自分の心の中にいるんだよ。」「心の中かぁ。」と自分の胸を押さえた。

教会は、学校の裏手にあった。
今は教会だが、戦争で消失するまでこの場所に「御茶屋御殿(うちゃや・うどぅん)」があった。
「東苑」は、首里城の東にある国王別邸の意味。
稜線上にあり展望のよい場所だ。晴れたら久高島も見えるかな。

稜線に沿って、首里城まで歴史散歩道が続いている。
道に面した家も花を植えて、美しい。ヒジガービラまーい。

巨大な石造獅子。この獅子は、御茶屋御殿にあったものだそうだ。

雨乞御嶽(あまごいうたき)。干ばつが続いたとき、国王が祈願した場所。
いつの世も、干ばつは大きな問題だったんだね。

子供達たち、ネットを張って野球の準備かな。

石畳の道と公園で散歩道はつながっています。

「下り坂大丈夫?」と声をかけると「ブレーキあるんだよ。」と女の子。

お祈りをしたくなるような、大きな樹木があった。

散歩道の終点。首里城が見えた。中央が正殿。左が書院。右が二階御殿。
いずれも国王がいた場所だ。ここから見る首里城もいいね。

首里城の好きなところ

2007-04-15 | 琉球・首里城
首里城は、観光客や修学旅行生など、いつも人が多いですね。
でも、京の内や西(いり)のアザナは、結構人が少なくて、ゆっくりと城を楽しめます。
それに無料区域にあるので、お金が不要だし。

門も何種類かありますが、櫓(やぐら)門は上から見ると風格があります。
城郭も立派で、建物とよく合っています。

これは、今年1月にオープンした書院(右側)と鎖之間(さすのま:左側)です。
書院は、国王の執務室です。鎖之間は王子の部屋。
前庭の琉球庭園を、これから作るようです。
京の内から、よく見えます。


ここから先は普段は公開していない場所です。
ちょっと見させてもらいました。

これは正殿の塗装をやり変えているところです。
漆ですが、中塗りに黒い色が使われています。
上塗りでは、ベンガラの赤を使います。
強い陽射しから大切な木材を守るために、黒い顔料を使うそうです。

日没後はライトアップされてきれいです。

琉球国王の部屋(御書院)

2007-01-30 | 琉球・首里城
首里城で、琉球国王や王子の執務室が復元されたので、行ってきました。
遺跡発掘調査から時代考証、設計、工事と合計6年を費やしたそうです。
首里城公園
書院(しょいん):向かって右側は、国王の仕事部屋。
鎖之間(さすのま):左側は、王子の部屋。
京の内からみたところです。
庭園工事がこれからなので、簾(すだれ)が掛かっています。

入り口は、南殿の2階の展示室から。
ここは地盤が高いので書院の1階につながります。
新しく出来た通路で書院に入ります。
昔の首里城は、建物の2階部分が正殿ともつながっていて、国王は階段を使わずに移動できたようです。

右側に見えるのは鎖之間。
庭には大きな岩がありますが、琉球庭園をこれから1年かけて復元するそうです。

内部は、8畳や12畳の広い和室が数部屋並んでおり、茶室もあります。
骨組みは和風で、イヌマキ(沖縄ではチャーギ)が使われています。
庭園側には、茶室があります。

首里城というと、赤く漆で着色された正殿が特徴です。
琉球建築は、中国と日本の建築様式が合体したように思えますが、今回復元された国王や王子の部屋は、「純和風」というのが新しい発見です。

鎖之間では、琉球王朝の説明を受けながら、琉球時代のお茶とお菓子が、300円で飲食できます。落ち着けます。
国王はこの場所で、国王の書簡を書かせたり、三司官(大臣)などから報告を受け判断したり、中国や日本からの賓客をお茶菓子などで接待したそうです。
首里城というと、儀式が行なわれる厳粛なイメージでしたが、新しい魅力かな。

琉球のお菓子

2006-12-05 | 琉球・首里城
琉球のお菓子を食べる機会があり、行ってきました。
お茶をいただきながら、ちょっとずつ試食してみました。
中国から伝わったもの、大和にも似た物があるものなど様々ですが、「与那城御殿御菓子并万例帳(よなぐすくうどuん おかし ならびに よろずためしちょう)(1879年)」など古文書に記載され、琉球独自に発展し根付いた御菓子のようです。

琉球料理の研究を続けている安次富 順子(あしとみ じゅんこ)さんが、古文書を分析し、古老の話を聞いて再現してくれました。

「大鶏餃(たいちーちゃお)」
胡麻あんを、ラードに小麦粉を混ぜた皮で包んだ揚げ菓子です。
香りがあり、これは美味しいです。


「松風(まちかじ)」
表面に胡麻を散らした焼き菓子です。
赤く染め帯状にして大きく結んでいます。
結納のときに縁起菓子として使われるそうです。
これはパリパリと食べやすいお菓子です。


里桃餅(りとうぺん)
袋を開けると、可愛い桃の形をした焼き菓子です。
名前に餅がついていますが、中国の小麦粉を使った餅(ぺん)です。
桃は中国では長寿のもとで、おいしさよりも形が優れています。


「桔餅(きっぱん)」
カーブチーなどの柑橘類を砂糖で煮詰めた菓子です。
中国への使者が持ち帰ったお土産が始まりのようです。
このように切り分けていただいた方がいいと思います。


このほか、「きんそ糕(ちんすこう)」など有名な焼き菓子もいただきましたが、珍しいものを紹介しました。

首里金城の大アカギ

2006-12-02 | 琉球・首里城
首里城の南側にある金城町の石畳。
近くに、うっそうとした森があります。
樹齢200年の大アカギが6本群生しています。
琉球の人はこうした森を大事にして祈りの場所にします。

下から見上げると、空を葉が覆い尽くしています。
右の樹と左の樹が、太陽の光を求めて、隙間なく枝葉を伸ばしています。

大アカギから石畳の道に続く道路は、発掘調査中でした。
昔の道路が復元されると、もっと行きやすくなります。

石畳の道に出て、南側に下りていきます。

村屋では、おじいが観光客に説明をしていました。

村屋のそばには大きなガジュマロがあります。

道沿いには沖縄の木々の名前が書いてあります。
自治会の人々が、樹名板を出しています。
こういうのは珍しいです。

いろんなところにシーサーがいます。
シーサーは、獅子の沖縄方言で、守り神です。

石畳の道

2006-11-28 | 琉球・首里城
首里城は高台にあります。
ここは、その南側にある金城町です。金城ダムの近くです。
小さな子が駆け寄ってきて、「こっちへ来ないデー。」と言いました。
でもおじちゃんは行かなくちゃ、ならんのです。

今日も日が暮れていきます。

日没を見て、さっきの子もいなくなったので石畳に向かいました。
明かりがついた古い村屋です。休憩できます。
女性二人連れが自転車に乗った男の子に「石畳の道はどこでしょうか。」尋ねていました。
「すぐそこです。案内しましょうか。」という返事に驚きました。
小さな女の子の方が素直だと思うけど、小学生でもうお客さんを案内する大人になっています。

この金城町の石畳の道は、500年前の琉球王国時代に造られました。
この坂道を登ると首里城にたどり着きます。
当時は王府に向かう重要道路で、今は観光客でにぎわう道です。

右側にある家は、どこかで見たような…。
「ちゅらさん」の那覇の家として、撮影に使われたそうです。

朝のみんもんたを見ていたら、合間のCMで、ちゅらさんの「ゆがふ」の店長が、マツモトキヨシ2号店をPRしていました。
藤木勇人さんは、沖縄では有名な人だそうです。
番組では店長役でしたが、同時に、「やさしい沖縄言葉」の指導をしたようです。

家族に見送られながら、こっそり家出をするえりぃが下る石畳の道。
タクシーの中から見送る父の風景です。

中城城跡

2006-11-10 | 琉球・首里城
琉球王国のグスク及び関連遺産群は、2000年に9箇所が、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
これらについては、次のサイト沖縄の世界遺産/沖縄の歴史・沖縄の文化が、動画で見れて判りやすいです。

これまで、首里城跡、園比屋武御嶽石門、斎場御嶽、座喜味城跡、勝連城跡について、紹介してきました。
6箇所目が、中城城跡(なかぐすくじょうあと)。- 中城城跡

三山統一の琉球建国に尽力し、その後、北山の動きを見張るため座喜味城にいた護佐丸。
今度は、王府に謀反しそうな勝連城主の阿麻和利の動きを牽制するため、琉球王府の命令を受け、ここに築城し移り住んだものです。

護佐丸の悲劇(1458年)
「護佐丸が、琉球王府を攻めようとしている。」という阿麻和利の虚言を、琉球王府が信じてしまい、護佐丸は阿麻和利によって滅ぼされてしまいました。
琉球王府の旗を掲げ攻めて来る阿麻和利を見て、国王に忠誠を誓う護佐丸は自害したといわれています。
邪魔だった見張り役の護佐丸を滅ぼした後に、阿麻和利が首里城に侵攻した事実を考えると、護佐丸は無実が晴れたとはいえ、無念だったでしょう。

こうした史実に思いをはせながら、城を登ります。
沖縄のグスクは、高台にあり、雄大な景観と海が広く見渡せることが特徴ですね。
このグスクから見える海も素晴らしいです。

何か工事をしていました。
良く見ると、石一つ一つに番号を振っています。
門のアーチを修理するために、こうやって一つずつ、丁寧に石を外して、アーチの修理後に、再び組み立てるんですね。

修復され、550年を経過した今でも、多くの人に見てもらえて、護佐丸も喜んでいると思います。


勝連城跡

2006-11-07 | 琉球・首里城
座喜味城跡とは反対側の太平洋側にも、世界遺産があります。
沖縄の中部で東南に突き出た半島にある勝連城(かつれんグスク)。

この立派な城を造ったのは、按司(あじ)の阿麻和利(あまわり)です。
海に面する絶好の立地条件を生かし、東アジアや大和との貿易を精力的に行い、大きな勢力を誇りました。
城跡からは、外国製の陶磁器類が数多く出土されています。

阿麻和利は、琉球建国(1429年)の三山統一の挙兵には加わらなかった上、大きな富を蓄えていたので、琉球王府の存在を脅かす危険な存在でした。
阿麻和利をけん制するために、首里城の琉球王府は、座喜味城から護佐丸(ごさまる)を呼び、近くの中城(なかグスク)城に配置しました。

すごいところに城を作ったものです。
海が良く見える上に、突き出た半島に位置しているので遠く沖縄南部まで見渡せます。

一番高い場所で「一の曲輪」と呼ばれるところからは、大和系の瓦が大量に出土したそうです。
当時、瓦をふいた建物は、首里城、琉球を統一した中山王がいた浦添城、そして勝連城だけといわれています。

野心家の阿麻和利は、1458年にライバルの護佐丸を倒し、首里城を攻めたが、王府軍に滅ぼされたとされています。
護佐丸との戦いは、二童敵討(にどうてきうち)など、琉球の総合芸術である組踊に残され、今に伝えられています。
首里城で中秋の宴
グスク紀行:中城・勝連・座喜味城跡