伊江島には戦争の大きな傷跡がある。
戦前に日本軍が飛行場を造ったのがきっかけなのか、未だに伊江島の面積の35%は米軍基地。
島民の多くは日本軍により疎開させられていたが、残った人々も終戦後は米軍により座間味島や渡嘉敷島へ移送された。
1953年7月から米軍は、銃剣とブルドーザーによる強硬な基地拡大政策を始めた。
1955年3月、米軍は最後通告を行い杭を打ち始めた。地元住民は中止を嘆願するが、14日にはブルドーザーで家屋や飲料水タンクを次々と破壊し接収した。
伊江島の63%が米軍に収用されたとき、「伊江島土地を守る会」を作り、反対運動を展開したのが阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんだった。
阿波根さんは米軍施政下の1955年7月から5ヶ月かけて、非暴力の抵抗運動を展開したガンジーの平和行進のように、沖縄本島を縦断。
「乞食行進」と称し、米軍に土地を取られた伊江島の農民の窮状を訴えた。
米軍と話すときの心得(1954年)には、命こそ宝の精神が込められている。
自宅に反戦平和資料館の ヌチドゥタカラの家(命こそ宝)を作った。
5年前に101歳で亡くなったが、訪れる人々に戦争の愚かさと平和の尊さを説き続けた。
阿波根昌鴻さん死去 伊江島での米軍土地収奪に抵抗 - 琉球新報
今でも、館長の謝花(じゃはな)さんが訪問者に語ってくれる。
修学旅行生への平和学習も行なわれている。
隣にある事務所にはエアコンはないが、涼しい。
沖縄は、昔から生えていた木を切り、今では電気なしでは暮らしていけなくなってしまった、と謝花さん。
裏側から見ると家はこんな感じ。
海岸沿いに有るため台風時には猛烈な風を受けるが、樹木で守られている。
先人が苦労して積み重ねた生活文化の大切さも、伝えてくれる。
戦前に日本軍が飛行場を造ったのがきっかけなのか、未だに伊江島の面積の35%は米軍基地。
島民の多くは日本軍により疎開させられていたが、残った人々も終戦後は米軍により座間味島や渡嘉敷島へ移送された。
1953年7月から米軍は、銃剣とブルドーザーによる強硬な基地拡大政策を始めた。
1955年3月、米軍は最後通告を行い杭を打ち始めた。地元住民は中止を嘆願するが、14日にはブルドーザーで家屋や飲料水タンクを次々と破壊し接収した。
伊江島の63%が米軍に収用されたとき、「伊江島土地を守る会」を作り、反対運動を展開したのが阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんだった。
阿波根さんは米軍施政下の1955年7月から5ヶ月かけて、非暴力の抵抗運動を展開したガンジーの平和行進のように、沖縄本島を縦断。
「乞食行進」と称し、米軍に土地を取られた伊江島の農民の窮状を訴えた。
米軍と話すときの心得(1954年)には、命こそ宝の精神が込められている。
自宅に反戦平和資料館の ヌチドゥタカラの家(命こそ宝)を作った。
5年前に101歳で亡くなったが、訪れる人々に戦争の愚かさと平和の尊さを説き続けた。
阿波根昌鴻さん死去 伊江島での米軍土地収奪に抵抗 - 琉球新報
今でも、館長の謝花(じゃはな)さんが訪問者に語ってくれる。
修学旅行生への平和学習も行なわれている。
隣にある事務所にはエアコンはないが、涼しい。
沖縄は、昔から生えていた木を切り、今では電気なしでは暮らしていけなくなってしまった、と謝花さん。
裏側から見ると家はこんな感じ。
海岸沿いに有るため台風時には猛烈な風を受けるが、樹木で守られている。
先人が苦労して積み重ねた生活文化の大切さも、伝えてくれる。