午前中、お義母さんとグンゼに行った。グンゼ創業期の技術の基礎を築いた新庄倉之助に関する資料を見せていただいた。
倉之助の墓は新庄家の墓の隣りにあり、戒名はなく、友人達が建立したことと福井県の病院で亡くなったことが記されている。血のつながりは分からないが、同じ株だったのかもしれない。
倉之助は何鹿郡蚕糸同業組合(初代組合長は波多野鶴吉)の書記として務めていた時に、波多野に口説かれて群馬へ技術研修に数年出掛けている。群馬では製糸の技術と共に、キリスト教の信仰も持ち帰った。
倉之助はハンサムで、モテモテだったようだ。グンゼの工女さんたちの教育係もしていたので、工女さんの間での人気は相当だったらしい。明治30年に入院した時には、多くの女性から菓子箱や珈琲、玉子、白砂糖などが届けられていることも、今回見せていただいた資料から分かった。
プライベートなことも結構分かってきて、「宥座の器」(あやべ市民新聞社刊)を出す時にこれが分かっていれば、もっと面白かったのになあと感じた。
日記を明治30年~36年(36年に36才で病没)まで克明につけておられて、年賀状の出し先も記録しておられた。当時の交友関係を確認できる良い資料だ。群馬・前橋の深沢利重にも毎年年賀状が出されていて、群馬研修中に当時の大きな製糸会社であった深沢組との付き合いがあったことを物語っている。
田野から北海道に渡った田中敬造とも頻繁に書簡のやり取りがなされており、キリスト信仰を通じて、深いつながりが最後まであったんだなあと思った。
日記やコピーしていただいた手紙を借りて帰って、少し読んでいたら、素晴らしいものを見つけた。明治20年の「巡回日誌」というものだ。グンゼの創業は明治29年で、20年というと倉之助が群馬研修に行っていた時の視察記録である。
群馬各地の工場を訪ねて、工場の配置や機械の様子、細かい技術知識などが図入りでメモされている。この日誌が、グンゼ創業を支えた礎の一つであることは間違いない。鉛筆書きのその小さなメモは、崩し字で書かれており、ほとんど読めないが、波多野が喜びそうな情報を少しでも集めようという意欲が感じられる。
古文書が読めたら、もっともっと解読できるのだろう。古文書はひらがなや略字が難しいので、もっと真剣に勉強しようかな。とりあえず古文書辞書を買おうかな。
午後はフロンティア事務所に寄ったら、ボランティアの方から「ふきのとうの味噌和え」をいただいた。食べたら、山菜独特の苦味がして、春の香りだった。
会社に戻ったら、来客が数件。
夜はNEXT例会だった。