現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

柔道の「受身」は いい

2012-01-18 14:06:57 | 虚無僧日記

「名古屋大の内田良 准教授(教育社会学)によると、
 柔道で死亡した中学、高校生は 過去28年間に
全国で114人(中学39人、高校75人)。
 後遺症が残る障害事故も275件あり、3割は授業中。

 中学の部活動における年間死者数を見ると、(10万人
 当たり)柔道が2・3人で、2番目のバスケットボール
 (0・3人)に比べても圧倒的に多い。
 死亡原因の大半は頭部外傷で、内田准教授は「首の筋力
 などが未発達なうちに、安易に立ち技や乱取りを行わせるのは
 危険」と。

その通りだ。柔道を習いに行くと、まず「受身」を徹底的に
習う。畳の上に仰向けになって、アゴを引き、頭が畳に
つかないようにする。翌日はもう首と腹筋が痛い。アゴを
引く首の筋肉を鍛えるのに、体育の授業で 週1回×3回
やったぐらいでは、全然ダメだ。首の筋肉がつかないうちに
投げ技をかけられるのは危険極まりない。

私は中学の時、柔道をやっていたおかげで、スキーで
転倒しても、階段ですべっても、頭を打つことはない。
瞬間にアゴを引いている。

そしてこれは、尺八でも「メリ」に大いに役立っている。
「首振り3年」。「メリ」が うまくできない人は、まず
柔道の受身を習うべし。


柔道事故3件

2012-01-18 13:38:31 | 虚無僧日記
柔道部顧問の教諭書類送検=中1

「柔道での事故」が3件、アップされている。

1. 静岡県函南町立函南中学校で2010年6月、
  同校1年の小川礼於君(当時(12)が 柔道部の
  練習中に倒れ、脳挫傷で死亡。

2. 名古屋市立向陽高校で 昨年6月、1年生の
  柔道部員だった倉田総嗣さん(当時15)が、
  練習中に頭を強く打ち、約1カ月後に死亡。

3. 三重県四日市市の県立高校で昨年9月、2年生の
  男子生徒が柔道部の練習中に首の骨を脱臼する
  重傷事故。

なんだ、3件とも過去の事件。公表されていなったのを
「4月から 柔道の必修化」に伴い、にわかにマスコミが
騒ぎだしたからか。

ところで、柔道人口40万人、世界一の柔道王国を誇る
フランス。「子供でも 事故死は一件も無い」とのこと。

ロシアでも感じたが、「格闘技」もダンス感覚なのだ。
音楽に合わせて、激しく飛んだり跳ねたり、回転したり。

4月から中高校で必修となるのは「武道とダンス」。
そうなのだ。「武道とダンス」を組み合わせた体操を
ロシアやフランスから学べば いいじゃ~ん。

悪役 「鳥居耀蔵」

2012-01-18 11:39:37 | 虚無僧日記
「遠山の金さん」の仇役「鳥居耀蔵」って?。

老中 水野忠邦の「天保の改革」を 厳しく押し進めた。
「天保」という年は、全国的な凶作による米価・物価高騰、
天保の大飢饉、百姓一揆や打ち壊しが起こっており、天保8年
には「大塩平八郎の乱」。海外では阿片戦争やモリソン号
事件など夷敵の恐怖もあり、幕政は混乱していた。

「天保の改革」の「緊縮・倹約令」は、必要あっての
政策だった。
しかし、歌舞伎や寄席など庶民の娯楽まで禁止したこと、
大奥の粛清、株仲間の解散などの強行策が反感をかい、
かえって経済の混乱を招いた。

また、異国の脅威から、洋学者を嫌悪するようになり、
「蛮社の獄」で 渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧した。

取締りは熾烈を極め、“おとり捜査”を常套手段とするなど
権謀術数に長けていたため、“蝮(マムシ)の耀蔵”。
あるいは「甲斐守 耀蔵」の「耀・甲斐」をもじって“妖怪”
とあだ名され、忌み嫌われた。

果ては、水野忠邦が諸大名の反感をかって、立場が危うく
なると、耀蔵は寝返って水野忠邦を失脚させた。ところが、
後年、水野忠邦が幕政に返り付くと、罷免され、讃岐丸亀に
幽閉される。

明治元年(1868)、徳川幕府の瓦解によって幽閉を解かれ、
明治5年(1872)28年ぶりに 東京に戻り、翌 明治6年
78歳で亡くなった。ある意味、幕末の動乱期を避けて
無事に生き延びられた強運の主だ。

外国嫌いの信念は最後まで曲げず、「自分の意見を聞かずに
開国したことが 徳川幕府を滅ぼす結果になった」と、最後まで
主張していたそうな。

鳥居耀蔵の詩 

「交市通商 競イテ 狂ウガ如ク
  誰カ知ラン 故虜ニ深望アルヲ
  後ノ五十年 須ラク見ルヲ得ベケレバ
  神州恐ラクハ 是レ 夷郷ト作ラン」

(現代語訳)
  人も商業も 競いあって狂ったようだ
  誰が知るだろう、幽閉された(耀蔵)の思いを
  五十年後の未来を見ることができるならば
  日本はおそらく 異人の国となっているだろう

鳥居耀蔵は頑固一徹の嫌われ者だったが、たしかに、
明治の日本は 鳥居耀蔵が予見した通りの「西洋文明を
真似た国」となった。先見の明があったか。






遠山の金さん

2012-01-18 09:21:20 | 虚無僧日記
「遠山の金さんの名セリフ『この桜吹雪が~』の続きは?」
と聞かれると、「目にはいらぬかぁ!」と答えてしまう人が
大半とか。

正解は「この桜吹雪に 見覚えがねぇ とは 言わせねえぜ」。

それほど、『水戸黄門』の人気は高かった。「金さん」は
「大岡越前」と比較しても、イマイチ。

では「遠山の金さんって誰?」。
江戸時代の天保年間に 江戸の北町奉行と南町奉行を務めた
遠山 景元(とおやま かげもと)。実在はするが、桜吹雪の
入墨があったかどうかは不明。ホントに入墨をしていたら
公職追放、罷免はまぬがれまい。いつも袖がめくれるのを
気にして、袖を引っ張っていたので、「入墨が見えないように
隠していたのでは」と勘ぐられたとかいう説まである。

遠山の金さんが、北町奉行となったのは 天保11年(1840年)。
翌、天保12年(1841年)、老中 水野忠邦の「天保の改革」が
始まる。当初は、町人達に 分不相応の贅沢と奢侈の禁止を
命じ、風俗取締りの町触れを出したりして、老中のご意向に
従っていたが、「寄席や芝居小屋の全面撤廃」などの過度な
政策には 反対し、天保14年に奉行を罷免された。

つまり、町人への極端な「倹約令」には反対した“お奉行様”
として人気が出たようだ。「遠山の金さん」が裁く 幕府の
高官は「老中水野忠邦」と「目付の鳥居耀蔵」だった。

その後、老中 水野忠邦が失脚し、遠山の金さんは、弘化2年
(1845年)南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の
町奉行を務めたのは極めて異例のことである。

ところで 天保14年。遠山の金さんが罷免された年、岐阜の
芥見村で虚無僧同士の縄張りをめぐっての闘争事件が起き、
死者まで出る。この事件のお裁きは、天保15年(1844)から
弘化4年(1847)の 4年間に及んだ。

そして、虚無僧本寺の鈴法寺、一月寺にも捜査が及び、
その結果、虚無僧寺は「飲む 打つ 買う」の巣窟になっている
として、虚無僧が弾圧されることになる。

この時の南町奉行は「遠山の金さん」だったのだが、
虚無僧は“非僧非俗”の無頼の徒とは云え、一応
「寺社奉行」の管轄でござった。「金さん」は関与して
いなかった。ザンネン


「万人に対して“いい人”て゛いるのをやめよう」?

2012-01-18 08:49:32 | 虚無僧日記
今日の「断捨離」メルマガ。

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「断捨離」をしたら、 愛想笑いをしなくなった。
その結果、人間関係が楽になったという。

モノとの関係は 「人間関係」とも 似ている。

「相手(モノ)を 捨てられない」という心理の
裏には、「捨てられたくない自分」が見え隠れする。

気に入っていない相手に対してまで“いい人”を
演じる必要はあるのだろうか?

残念ながら、どんなに相手に合わせてみても、
万人から好かれることは不可能。

「万人に合わせようとする」こと自体を 嫌う
人だっているわけで・・・・・。

「断捨離」の究極の取り組みは、「いい人」を
捨てることなのかもしれない。 そのためには
勇気が必要だ。

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そういえば、『家政婦のミタ』さんは、「その笑顔が
人を不幸にする」と云われて、笑顔を捨てたのだった。
私も最近、“愛想笑い”をしなくなった。年齢を重ねて
落ち着きがでてきたか。

今日の運勢も、なんと「つきあいが多くなり、本分が
おろそかに。交友関係を整理しよう」だって。

でも やっぱり、人に対して“いい人”であろう
とする心は捨てられない。「捨てられない、捨てられない、
カッパえびせん」