現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「失楽園」と『愛のコリーダ』

2014-05-06 14:50:20 | 虚無僧日記
「小保方晴子と理研上司の“失楽園”」という見出しに???。
“失楽園”とは「不倫」の隠語と知りました。

渡辺淳一先生の『失楽園』は、「250万部を超す大ベストセラーになり、
「失楽園」は「不倫」の代名詞として流行語大賞にも選ばれた」とか。

「失楽園ブーム」を巻き起こしたにしては、倫理の頽廃を牽制する
ためか、「キライ」「ワカラン」「ケシカラン」という批判の声の
方が多い気がする。世の中の人はそんなに真面目なのかと、逆に
驚く。

渡辺淳一は『失楽園』を執筆中に、インタビューで。

「世の中、金さえあれば、たいていのことは解決する。不倫だって
金で解決しようと思えば、なんとかなる。金が無いから“心中”と
いうことになる。その“お金”の問題も無く、“ただ愛だけで、
心中できるのか?”それがテーマです」というようなことを
話されていた。

原作では、「凛子」は、“楷書の君”と呼ばれるように、折り目正しく
清楚で凛とした女性だった。だからこそ“信じられない”ような
意外な展開になっていく。

しかし、「川島なおみ」が演じたテレビ版では、派手で奔放な女性。
これでは、そこらにありふれた ふしだらな女性の週刊誌のエロ小説と
変わらない。

『失楽園』の原作では「阿部定」事件が“柱”としてあった。
「阿部定」は愛人を殺すという猟奇事件だったが、不思議と刑は軽く、
5年で出所している。
「阿部定」を扱った大島渚の『愛のコリーダ』は、三木稔の
尺八三重奏『ソネット』と『箏譚詩集』がテーマ音楽として使われており、
私の都山流の師「古賀将之」が第二尺八を吹いている。それだけに
強い関心があり、グアム島まで行ってオリジナル版を観た。
日本ではそのままでは上映できなかったのだ。

ところで、『愛のコリーダ』の中で「定」が、汽車に乗って
“先生”のところへ金を無心に行くシーンがあった。あの“先生”は、
なんと、名古屋市議会議員で商業学校の校長「大宮五郎」とのこと。
びっくり。

5/5 急遽 尺八の代理を探す

2014-05-06 13:41:45 | 虚無僧日記
5/5は、毎年恒例の「名古屋城・古武道大会」で
詩吟の伴奏。そして、午後2時からは、津市の
「○○院」で 眞道さんの「一絃琴」の伴奏。

天気ならば予定通り事が運ぶ はずでしたが、雨が降り出し、
県体育館に移動となり、1時間遅れ。

これでは 午後に間に合わない。プログラムを見ると、
太鼓の演奏に尺八がいる。その人に詩吟の伴奏をも
頼むことにしました。

会ってみると、なんとまだ「大学生」。「詩吟の伴奏は
やったことがない」という。でも「ミファラシド」の音階を
教えると、結構上手。理解も早い。前奏とアドリブを
教えること30分。

「あとは おまかせぇ~」で、名古屋城を飛び出し、
津に向かってしまいましたが、彼、うまくできたかな?

思い起こせば、私も20歳の頃、「堀井小二朗」先生の
鞄持ちで付いていった先で、突然「君、吹いてみなさい」と。
今から思うと赤面ものですが、プロにも“最初”は
あるのです。こんなきっかけでプロになるものです。

あるジャズバンドのドラマーも言ってました。付き人を
していたら、「お前、叩いてみろ」と言われ、初めて
叩いた。それからは、聞いていたお客さんから「リズムは
こう叩くのだ」と教えられながら 覚えていったと。

私のマネージャーの「鈴花」も、今では 太鼓・鳴り物と
箏の伴奏で、しっかりギャラをいただいています。

昨日も「一絃琴と尺八」にあわせて、みごとに太鼓を
叩いてきました。その才能と努力は すごいものです。

箏、三絃の古曲に尺八は要らない?

2014-05-06 12:58:30 | 虚無僧日記
「教えて!」のコーナーに「尺八ばかり優遇されるのはなぜ?」
という質問がありました。内容は、タイトルとは多少意味が違って、

「尺八は、独特の“間”や、“当たり”“かすれた音”などの
ノイズ(雑音)が特徴で、本曲などの独奏曲は良いが、箏・三絃との
合奏では、その特長が邪魔になり、押し殺して演奏するくらいなら
無い方がいいではないか」という意見でした。

私も実は同感です。その前に「尺八家は優遇されている?」と
いう声に、私なりに思うことがあります。

明治以降、虚無僧が禁止され、尺八家の多くが、箏や三絃との合奏に
活路を見出し、それぞれ流派を確立してきました。

名人と云われた琴古流の「三世・荒木古童」などは、門弟に
元大名や華族、政財界の大物が多く、都山流の開祖「中尾都山」に
しても 企業の社長クラスに絶大な支持を得ていましたので、
昔の尺八家は、箏や三味線のお師匠さんのパトロン的存在でした。

ですから、社会的には、箏、三絃の師匠より優位に立って、
いばっていました。その傾向は、現代にも少し引きずっています。

でも、威張っている反面、技術的には、音程もリズムも合わない、
およそ音楽とはいえない低レベルの尺八家が多いのも事実です。


そして、やたら強く吹いて、音量ばかり自慢する人も多くいます。
質問者様が「尺八は音量の調整ができないから、箏や三絃の繊細な
表現をぶちこわす」と言っているのも、よくわかります。

かく言う私も、若い時はそうでした。やたら大きな音を出して、
妻(宮城会・大師範)に何度も注意されたのですが、全く聞く
耳を持ちませんでした。それが離婚の一つの理由でもあります。


最近は、地歌・筝曲の古典には 尺八無しの演奏が多くなった
気がします。私も「三曲合奏」の仕事はほとんど無くなりました。
仕事は「本曲」などの独奏中心です。

以前 NHK・FMラジオ「邦楽のひととき」で「梶田昌艶」先生の
『千鳥の曲』の尺八伴奏を務めさせていただいた時は、「横笛」の
ように、細く長く伸ばす節付けで、注目されました。

「何流ですか?」「あの譜面をください」との問い合わせを
何件かいただきました。

宮田耕八朗師も言っていました。「尺八が箏や三絃と全く同じ
旋律をユニゾンで吹くなんて おかしい。そんな音楽、世界中
どこにあるか!」と。

我が師「堀井小二朗」師も言ってました。「尺八は尺八家に
よって滅びる。音程もリズムも悪い。音色も汚い。それで
音ばかり大きい。嫌われて当然」と。