「虚無僧」を見て、二つの反応がある。
私の尺八の音に感動して喜捨くださる方と、
尺八の上手下手など関係なく「修行僧」として布施される方。
この見分けが難しい。
昨日の昼。作業服姿の壮年が、目を輝かせて近づいてきた。
「すばらしい尺八ですねぇ。(自転車で)通り過ぎたんだけど、
思わず戻ってきた。あなたの尺八の音は、私の琴線に響いた。
心が揺さぶられた」と。たくさん喜捨していただいた上、
桃やカリンまでいただいた。
地下鉄駅構内で休息していると、若い男性が近づいてきて
「どのように、布施させていただいたらいいですか」と。
「ここ(駅構内)では尺八は吹けませんが、お気持ち
いただけましたら、このゲ箱に」と、入れていただいた。
それで、尺八の現状など 話して、能楽堂公演の
チラシなど渡そうとしたら、彼の態度が一変した。
若者言葉で「軽いっすね。いやらしいっすね」と。
「“修行僧”ではなく“尺八家”のパフォーマンスか。
ならば布施するんじゃなかった」というように思われたようだ。
聞くと、彼はラオスに行って、小乗仏教を学び、托鉢も
体験しているとのこと。
私の心の中で、演奏会に向けて集客のための宣伝、
デモンストレーションという意識だったことは否めない。
そういう “欲” 丸出しで 虚無僧をしていたことに、
脳天を叩き割られた感じ。
がっくりして、中村公園駅から家に向かってトボトボ
歩いていると、「あらッ」とご婦人の声。私の方を見て
挨拶される。
(はて、どなた様か?知らない方だか)と立ち止まっていると、
「先日 “九の市”で 吹いていた方ですか。すばらしい音色で
感動しました。でも どのように(喜捨)したら良いのか
わからなかったので」と。
そのお言葉だけでうれしい。また元気を出して家路に
つくことができた。