現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「慶長の御掟書」の中身

2016-05-31 21:48:58 | 虚無僧日記

虚無僧集団が金科玉条として振りかざす『慶長の御掟書』は、原本は

存在せず、『写し』が20以上もあるようです。私は全部は確認して

いませんが、短いのは 6項目、多いのは 20項目もの条文になっており、

ひとつとして同じ文章のものはないというものです。中には正反対の

記述になっているのもあるとか。

一例を挙げてみます。

一 虚無僧の儀は、勇士浪人一時の隠れ家となし、守護入れざるの宗門。

  よりて天下の家臣諸士の席、定め置くべきの条、その意を得べき事。

 (虚無僧は、勇士が浪人となって一時の隠れ家であり、幕府の警察権の

  及ばない宗教団体である。従って虚無僧は武士と同じ資格を持つものと

  定められていることを 理解せよ)

一 虚無僧、諸国行脚の節、疑わしき者見掛け候ときは、早速召し捕らえ、

  その所へ留め置き、国領はその役人へ相渡し、地領代官所はその村役人へ

  相渡し申すべき事。

 (虚無僧は、諸国行脚の際に、疑わしい者を見つけた時は、捕まえて

  役人に引き渡す任務と権限を持つ。これがいわゆる「公儀御用」の

  役目をもつというもの)

一 虚無僧の儀は、勇士の兼帯なる為、自然 敵(かたき)など相尋ね候旅行、

     托鉢に障り、むつかしき儀 出来候節は、その子細を相改め、本寺まで

  申し達すべく候。本寺に於いて相済まざる儀は、早速、江戸奉行所へ告げ

  来るべき事。

 (虚無僧は敵討ちのために旅行していることもあるので、托鉢に際して

  無礼な振る舞いを受けた時は、虚無僧の本寺へ申し伝え、それで

     解決しなければ江戸奉行所へ訴えてよし)

一 虚無僧止宿は、諸寺院あるいは駅宿の役所へ旅宿いたすべき事。

 (虚無僧は諸寺院や駅宿の役所へ宿泊すること。宿に泊まらずとも

  寺院や役所は無料で宿泊させよということでしょうか。民家に泊める

  ことは国法=藩の決めごとで禁じられていました)

一 虚無僧の法冠は猥(みだ)りに取るべからざるものと、万端心得べき事。

 (虚無僧の法冠=天蓋は、みだりに取ってはいけない。逆に言えば、

      顔を隠して天下を通行できる)

一 尋ね者申し付け候節は、宗門諸流、丹誠をぬき抽んずべき事。

 (幕府がお尋ね者を捜す仕事を命じた時は、虚無僧諸流派は誠意を持って

     励むこと。これも「公儀御用」。ここから「虚無僧は公儀隠密」などと

  言われているのですが、幕末になって、幕府から「そのようなことを

  いっているようだが、けしからん。仏道修行に専念すべし」と

  お叱りをうけています) 

一 虚無僧、敵討ち申したき者これあるは、吟味を遂げ、兼ねて

  本寺に断り、本寺より訴え出すべき事。

 (虚無僧で、敵討ちをしたい者があれば、本寺に許可を申し出ること。)

一 諸士血刀を提げて寺内に駆け込み、願を依る者は、その起本を

  問うて抱え置くべし。もし弁舌を以て申し掠める者これ有らば、

  早速訴え出づべき事。

 (武士が血刀を持って虚無僧寺に駆け込んできたら、事情を確かめて

  保護すること。)


「慶長19年家康公御掟書」をめぐって

2016-05-31 08:23:07 | 虚無僧日記

http://page21.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j395553255 

「邦楽ジャーナル」5月号に「虚無僧曼荼羅」として寄稿した内容について 

虚無僧研究会の小菅大徹会長から三点ご指摘をいただきました。

第一は「『慶長の御定書』とあるが、これは『御掟書』ではないか」とのこと。

たしかにその通りです。しかし私が敢えて「御定め書き」としたのは

次の理由からです。

結論から言えば、もし原本があるとすれば、それは「定(お定め書き)」で

あって、それを虚無僧集団が「家康公が定めた御掟(おんおきて)」と

言い習わしてきたものです。

この「御掟書」は幕府が発した原本は存在せず、その写しが20点以上も

現存しており、その多くが「御掟書」となっていますが、「お定書」と

いうのもあります。琴古手帳所載のは家康公御定」。

丁度ヤフーオークシションにも出ました。これも「定」です。

「掟」と「定」では「木」編があるかないかですが、「おきて」と

「さだめ」では意味が違います。

江戸幕府が発した公文書は「触」「覚」「定」であって、「掟」と

いうのは「村掟」や「山川掟」「〇〇寺院掟」とか「会津藩の什の掟」の

ように、限定された集団内で自分たちで取り決めた約束事です。

『徳川禁令考』は 明治になって江戸幕府の公文書を収録編纂したもので、

その膨大な文書の中に、「掟」となっているのは、もう一件「慶長18年 

宗門(寺院)檀那請負之掟」というのがありました。「人は皆いずれかの

寺院に檀家として登録しなければならない」という、寺院経営にはまことに

都合のよいものですが、実はこれも「偽造されたもの」といわれています。

虚無僧の「慶長19年の掟」は、どうやらこの「慶長18年の宗門(寺院)

檀那請負之掟」を真似たのではないかというのが私の推論です。

 

虚無僧が金科玉条としてふりかざす「御掟書」ですが、「お定め書」を

「御掟書」としたことは大チョンボでした。これが偽書であることの

証左であり、まさに馬脚を現したことになります。

そもそも「御掟書」と呼ばれているのは、この「お定め書き」の前に

書かれている題目が「家康公入国の節、(あるいは砌=みぎり)、

仰せ渡らせ候御掟書」とか「家康公お定めの掟」とあるためです。

この御題目すらまちまちです。

その「ご入国の砌(節)」というのは、秀吉による小田原北条氏滅亡後、

徳川家康が関東に移封してきた年」をいうのでしょうが、それは

「天正18年(1590)」であって、末尾に書かれた「慶長19年(1614)」は

大阪冬の陣で豊臣氏が滅亡した年です。

天正18年、家康公が関東入国の砌(みぎり)に定めた掟の日付が、24年も

後の「慶長19年」というのですから、とんでもない間違いです。

さらに「家康公お墨付き」といいながら家康の朱印、黒印は無く、

「本多上野介、板倉伊賀守、本多佐渡守」三人の連署になっていますが、

この三人がそろって連署する公文書は他にないとのこと。

この「慶長の掟書」は、すでに江戸時代から偽書と疑われていました。

1.新井自石は「署名、文体等に首肯し難さ、疑問点あり」と。
2.江戸幕府寺社奉行稲葉丹後守は在職中に「覚書に疑問あり」と記した。

3.徳川初期の制令、法度を蒐集編纂した書物に見当たらない。
4.家康の近侍後藤正三郎の[駿府実録中」に書きしたためてない。
5.慶長19年前後の寺社奉行職を管掌していた金地院崇伝の日記にもない。
6.署名者中本多佐渡守は二代将軍秀思の老職で宗門制令の類に署名した
  ことがない。また金地院崇伝の署名のないのもおかしい。
7.寺社間係の書類には将軍の判を押捺したのに、御判、朱印、墨印がない。