「邦楽ジャーナル」に寄稿
虚無僧曼荼羅 17 9月号
青梅鈴法寺の創建について
仁君開村記
虚無僧本寺の一つ青梅鈴法寺の成立については、吉野織部之助の
『仁君開村記』で明らかにされています。吉野織部之助は天正18年
(1590)小田原北条氏滅亡の際、最後まで抵抗した忍城(現埼玉県行田市)
の遺臣でした。(忍城は映画『のぼうの城』)で有名になりました)。
その『仁君開村記』によると。
吉野織部之助は、徳川の世となって、「武蔵野に郷村を開くべし」との
将軍のご意向により、新村開設の許可を得た。そしてまずは井戸が必要と、
井戸掘り職人を求めて舅の住む柏原(現埼玉県狭山市)に行った。
その折(慶長18年8月1日)虚無僧に出会い、言葉をかけると、
忍城で討ち死にした同輩秋山惣右衛門の子息太郎と判った。
太郎は出家して月山養風と名乗り、葦草村(現川越市)の鈴法寺の
住職をしているとのこと。月山が「そちらに行きたい」というので、
「お安い御用」と引き受けた。翌9月3日、月山がやって来たので、
土地約1000坪を寄進し、10月には3間四方(9坪)のお堂を
建てて住まわせた。
以上が『仁君開村記』に記された内容です。「仁君」とは二代将軍徳川秀忠を
さしています。吉野織部之助は将軍を「仁君」と称え、将軍の意を受けて開村し、
名主となったことに感謝しているのです。例の『慶長の掟』が、前書きに
「家康公関東入国の砌(みぎり)」としながら、末尾には「慶長19年正月」と
なっている謎ですが・・・。
「家康公の関東入国」は天正18年(1590)。小田原北条氏が滅び、
徳川幕府の下に江戸の開府と武蔵野の新田開拓が進められました。
そして24年後の慶長19年(1614)正月は青梅に鈴法寺が建てられて
3カ月後です。この時、寺として公認されたのでしょうか。
鈴法寺の成立経緯を暗に示しているようです。
鈴法寺の『過去帖』によれば、月山養風は第20世。開山は
「活総了」で鎌倉時代の1266年歿となっています。しかしこの
『過去帖』は江戸時代末に書かれたもので、普化宗が鎌倉時代に
日本に伝えられたとする伝承に合わせて、歴代住職を創作したもの
と思われます。
そもそも虚無僧は浪人の仮の姿で、門付け以外に収入は無いのですから、
寺などは建てられず、廃寺か無人のお堂に勝手に住みつくしかなかった
はずです。青梅に移る以前、葦草にあったという鈴法寺は果たして
寺としての要件を満たしていたのかは疑問です。
幸いにも月山は吉野氏に巡りあって寺を建ててもらった。しかし
寺といっても、わずか3間四方(9坪)のお堂でした。
吉野織部之助は、村ができれば寺も必要と、敷地3000坪に間口9間の
東禅寺を建てています。鈴法寺の三倍の規模です。
その後江戸時代の半ばには虚無僧の最盛期となり、鈴法寺は、
江戸に番所(出張所)を出し、下総の一月寺とともに幕府との窓口役である
虚無僧本寺になります。しかしやがて虚無僧の横暴、堕落が問題となり、
弘化4年(1847)幕府は御触書を出して虚無僧の粛清を図ります。
これによって虚無僧の数も減り、鈴法寺も幕末には無住となりました。