「修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。
江戸時代の山伏にもピンからキリまであったようだ。
山岳修行にひたすら打ち込む、修行本位に生きる山伏もいたが、
「祭文語り」からごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプが あった。
町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、
招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、
代願人になる、そうしたタイプの山伏が、江戸時代には最も多数だった。
それは、中世的な行者ではなくて、祈禱者であった。
幕末、山伏は17、8万人も居たという。明治になって、「山伏」は天台、
真言いずれかの寺院に属するようにとの命がおりた。
虚無僧は500人ほど、虚無僧の普化宗は廃止され、尺八を吹いて
門付けすることも禁止された。インチキ祈祷師の山伏より虚無僧の方が
タチが悪かったということか。