宇治市の伊勢田町に「ウトロ」地区というのがあるらしい。
陸上自衛隊の基地の北側だ。ここに戦争中、飛行場を造るため
朝鮮半島から強制連行されてきた人達の住宅が建てられ、今日
まで住んでいる住民と、土地所有者の間で訴訟になっていると
いう記事を目にした。事件は韓国の支援団体の寄付もあって
5億円で買い取ることで決着しそうとか。
この「ウトロ」というカタカナ地名が気になった。朝鮮語なのだ
ろうか。ウトロといえば、北海道の知床半島が有名だ。こちらは
アイヌ語で「地の果て=岬」という意味だそうだ。
伊勢田という地名も気になる。伊勢神宮のある伊勢市の名鉄駅は
「宇治山田」。宇治と伊勢の関係が知りたい。
というのは、宇治は昔から中国、朝鮮からの渡来人が多く住む所
だったらしい。お茶の産地で有名なのも、お茶が渡来人によって
栽培されたからだ。尺八もまた中国から伝えられたという。
室町時代以前、ここに「富家の庄」があった。「フケ」は中国の
福建省につながる。虚無僧の宗派を「普化(フケ)宗」という。
関係はあるのだろうか。
宇治には、室町時代、一休と同時代に、異国の僧「朗庵」が住ん
でいた。朗庵は尺八をよくした。朗庵の墓というのもある。朗庵
は、一休の尺八の友「一路」だという説もある。
近くには黄檗山万福寺がある。江戸時代に白隠禅師によって、中国
からもたらされた禅宗で、中国風の寺院が建っている。その塔頭の
一つに「吸江庵」があった。朗庵または一路の棲家だったという
伝説もある。
宇治と伊勢は、「吸江流一路」を名乗る私にとって、深い関わりの
ある土地なのだ。
水上勉と小椋圭によって、さんざん「エロ坊主」にされて
しまった一休さん。それでも「平気平気、気にしない」の
一休さんだろう。
一休の唯一の書『狂雲集』は、詩偈を集めたもの。その
最後の方に、大徳寺の住持となっての「入室」の語と
「退室」の語が続けて掲載されている。そのため、多くの書では
「一休は大徳寺の住持に就任しながら、就任式をすっぽかして
欠席した」とか、1日で住持の肩書きを返した。「三日坊主、
ならぬ一日坊主だった」などとしている。
水上勉の『一休』にいたっては、「森女が流産しかかって、
狼狽しまくって、大事な晋山式に行きたくとも行かれなかった」
などと創作している。とんでもハップン。
よく考えてみれば、その時、大徳寺は応仁の乱で焼失して
いたのだから、立派に飾られた本堂で、大勢の衆僧に
迎えられての きらびやかな就任式など 営めたはずはない。
『狂雲集』は、詩偈を集めて編集したものだから、就任時と
退任時の『法語』を並べて載せただけのことなのだ。
さて、そこには「入室」として「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」の
「普化禅師」の偈が書かれていた。
「退室」の偈は「尺八を弄していう、一枝の尺八、知音少(まれ)なり」。
この『狂雲集』の最後に掲載された一休の「法語」こそ、
「普化」の偈「明頭来」と尺八とを結びつけた最初のもので
あることに注目したい。
これが一休の死後、「普化僧=虚無僧」が現れる元となったと
私は考えている。尺八家にとって、虚無僧にとって、一休の
この「法語」は金科玉条のものとなるのだが、それに気づく者は
誰もいない。水上勉ののおかげで長らく、ぶっ飛んでしまって
いたのだ。