一休は 師の「華叟(かそう)」から与えられていた「印可状」を破り捨てていたから
大徳寺の住持となる免許証がない。一休は大徳寺の住持の肩書など真向から
否定していた。それなのになぜ、不本意ながら住持を引き受けたのか。
その謎がついに解けた。
一休が大徳寺の住持を引き受けたのは、“住吉神宮からの強い要請があったから“
というのが私の推理。
大徳寺と住吉神宮は 卓然以来、深い関係があった。住吉神宮は大徳寺の
窓口となって明との交易を行い、莫大な利益を得ていたのだ。
その大徳寺が応仁の乱で焼失してしまっていた。大徳寺の再建を最も強く
望んでいたのは、住吉神宮だった。
住吉神宮は、大徳寺を再建できるのは一休をおいて他にないと、森女を
通じて一休に大徳寺の住持になるよう依頼した。
住吉神宮の津守氏と村上天皇との間に生まれた人の娘であった。
一休が『狂雲集』の中で「王孫の美誉を伝え聞き」といっている「王孫」を
一般には「一休自身」のことと解釈されているが、一休は天皇の子であるから
「王孫」ではなく「皇子」である。「王の孫」とは「天皇以外の王子の孫」である。
とすると「森女こそが後醍醐天皇の王子の孫姫」であったことを意味している。
一休は住吉神宮で盲目の女性森女に心惹かれた。
その時、森女は一休に「大徳寺の住持となって、応仁の乱で焼けた大徳寺を
再建して欲しい」と頼んだが、一休は はじめ無視する。
半年後、一休は住吉神宮で森女に再会する。そして「旧約を新たにする」と
『狂雲集』にある。「旧約」とは「大徳寺の再建」という約束だったと
私は理解する。それを一休は再確認したのである。
こうして、一休は大徳寺の住持となる。とはいっても大徳寺は焼失して無い。
だから、大徳寺に入室したわけではない。一休は堺で、豪商たちに大徳寺再建の
資金調達を依頼する。現在のお金に換算して、15億から20億という大金を、
尾和宗臨はじめ堺の商人たちが納め、大徳寺は再建されたのである。
一休の人気がいかにすごかったかである。一休でなければ集められなかった。
その大徳寺が完成しても一休は大徳寺には住まず、薪村で森女とともに
仲睦まじく暮らし、88歳の生涯を閉じた。