現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

一休が大徳寺の住持を引き受けた謎が解けた

2017-09-16 20:07:53 | 一休と虚無僧

一休は 師の「華叟(かそう)」から与えられていた「印可状」を破り捨てていたから

大徳寺の住持となる免許証がない。一休は大徳寺の住持の肩書など真向から

否定していた。それなのになぜ、不本意ながら住持を引き受けたのか。

その謎がついに解けた。

一休が大徳寺の住持を引き受けたのは、“住吉神宮からの強い要請があったから“

というのが私の推理。

大徳寺と住吉神宮は 卓然以来、深い関係があった。住吉神宮は大徳寺の

窓口となって明との交易を行い、莫大な利益を得ていたのだ。

その大徳寺が応仁の乱で焼失してしまっていた。大徳寺の再建を最も強く

望んでいたのは、住吉神宮だった。

住吉神宮は、大徳寺を再建できるのは一休をおいて他にないと、森女を

通じて一休に大徳寺の住持になるよう依頼した。

住吉神宮の津守氏と村上天皇との間に生まれた人の娘であった。

一休が『狂雲集』の中で「王孫の美誉を伝え聞き」といっている「王孫」を

一般には「一休自身」のことと解釈されているが、一休は天皇の子であるから

「王孫」ではなく「皇子」である。「王の孫」とは「天皇以外の王子の孫」である。

とすると「森女こそが後醍醐天皇の王子の孫姫」であったことを意味している。

一休は住吉神宮で盲目の女性森女に心惹かれた。

その時、森女は一休に「大徳寺の住持となって、応仁の乱で焼けた大徳寺を

再建して欲しい」と頼んだが、一休は はじめ無視する。

半年後、一休は住吉神宮で森女に再会する。そして「旧約を新たにする」と

『狂雲集』にある。「旧約」とは「大徳寺の再建」という約束だったと

私は理解する。それを一休は再確認したのである。

こうして、一休は大徳寺の住持となる。とはいっても大徳寺は焼失して無い。

だから、大徳寺に入室したわけではない。一休は堺で、豪商たちに大徳寺再建の

資金調達を依頼する。現在のお金に換算して、15億から20億という大金を、

尾和宗臨はじめ堺の商人たちが納め、大徳寺は再建されたのである。

一休の人気がいかにすごかったかである。一休でなければ集められなかった。

その大徳寺が完成しても一休は大徳寺には住まず、薪村で森女とともに

仲睦まじく暮らし、88歳の生涯を閉じた。

 

 


女陰は法の御蔵

2017-09-16 03:54:29 | 一休と虚無僧

一休さん、道端で女が小便をしているのを見、陰門を拝み、
「ありがたや、ありがたや」と云ったとかいう話が出回って
いるようです。

この出典は、江戸時代に書かれた『一休諸国物語』でしょうが、
原作は 全然違います。
 

一休が川辺を通りかかると、女が裸になって水浴びをして
いるのを見て、三拝して過ぎ去った。居合わせた人々は
「世の中の坊主は、女の裸を見たら、心地良げに、ねちかえり
ねちかえり隠れ見るのに、あの坊さんは、拝んで行って
しまったよ。仔細を尋ねん」と、追いかけて一休の袖を
つかまえ、「女の裸に三拝するという法が、仏教にあるの
ですか?」と問う。一休かく言い捨てて過ぎ行く。

 女をば法(のり)の御蔵(みくら)というぞ、
  げに、釈迦も達磨も出(い)ずる玉門(ぎょくもん)

村人たちは、「殊勝な坊主なり。実にまことに、高貴の方
も高名の僧もみな、女人の胎内から産まれたという心なる
べし、尤もなり」と、感心する という話なのである。

もっとも、これも江戸時代の創作話で、一休の『狂雲集』に
ある「盲目の森女(しんにょ)」を歌った詩から、着想を
得たものであろう。

一休は、森女の陰門をまさぐり「枯れた梅の老木も甦る」
とか、「そなたの陰水は、水仙の香りがする」と、愛を
赤裸々に表現しているのである。これをそのまま読めば、
“ドスケベなエロ坊主”だが、これには、裏に、もっと
もっと深い意味が隠されていることを知る人はいない。

この詩から江戸時代の戯作者は、上記のような「女陰は
法の御蔵」という道歌を導き出したのは、まだ すばらしい。

私は、『狂雲集』にわざわざ載せられた「森女」の詩は、
「森女こそ“仏”」と言っているのだと思っている。

一休は「住吉神宮」の導きで大徳寺の住持になり得た。
「森女」は「住吉神宮」の象徴なのだ。