現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

868人もの方からアクセス

2017-12-08 21:57:41 | 虚無僧日記

突然、868件ものアクセスがあり、278万件中352位となりました。

翌日からは いつも通り400件前後です。なぜ突出したのか理由は全くわかりません。

昨日は「楽しいというかどんどん引き込まれる存在感のあるブログですね!」という

コメントをいただきました。 ありがとうございます。

 

ブログ炎上すような記事を書きたいと日々頭を悩ませています。

私のブログは毎日400人前後の方に読んでいただいていますが、全く

コメントが寄せられません。どうしてか不思議でなりません。

感想、ご意見どんどんお寄せください。

facebookも「Shinichiro Makihara」で開いています。こちらは写真を

掲載していますので、ぜひ見てください。


「一休」と「楠正勝」

2017-12-08 21:56:41 | 一休と虚無僧

「一休」には「南朝」の影が色濃くつきまとう。
東映アニメの「とんちんかんちん一休さん」でも
母は南朝方の出で、南朝の残党が一休をさらって
南朝の天皇に担ぎだそうというシーンが出てくる。

一休の死後、弟子たちによって編纂された『一休和尚年譜』の
冒頭に、「母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇
の寵愛を受けていたが、懐剣を懐に偲ばせ、帝の命を狙っている
と讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」と
ある。

一休は、父は北朝の後小松天皇、母は南朝の楠の血筋で、
北と南の板ばさみだったのだ。6歳で「安国寺」に預けられるが、
「安国寺」は、足利尊氏が滅ぼした後醍醐天皇をはじめ、
楠正成、新田義貞ら南朝の忠臣の霊を祀るために建てられた
寺だった。そこで、曽祖父の楠正成の菩提を弔わせるために、
いれられたのだが、もうひとつ理由がある。

それは、足利3代将軍義満は、自分の子供「義嗣」を
次期天皇にしようと企み、一休が邪魔だったのだ。
一休は後醍醐帝の後、101代天皇になれる人だった。

北と南の双方の板挟みになり、また足利義満の監視下に
置かれるという運命に抗ってか、一休は安国寺を
飛び出す。そして生涯を一蓑一笠の托鉢僧で過ごそうと
する。

だが、一休は大阪の「住吉大社」にしばしば滞在している。
ここは、後醍醐天皇の子「村上天皇」の安在所だった。
そして、南朝に心を置く者たちがよく集まってきていた。
一休は77歳の時、ここで盲目の女性「森女」と出会い、
薪村に連れて帰る。

また、神仏混淆の時代だから、神家の津守氏からは
大徳寺の住持も出ているのだ。一介の托鉢僧として
生きてきた一休が、81歳で「大徳寺」の住持に
なれたのは、住吉大社の後押しがあったからという。