現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

二つの興国寺

2019-05-09 19:55:30 | 虚無僧日記

興国寺といえば、紀州(和歌山県)由良の興国寺。

こちらは、富士の裾野を領地とする鎌倉御家人の葛山景倫によって開基された。

葛山景倫は源実朝の命を受けて宋に渡るため博多まで行ったところで

実朝の訃報を知り、引き返し、実朝の菩提を弔うべく高野山に登って出家した。

北条政子は、葛山景倫の忠心を讃え、紀州由良の地を葛山に与えた。

 

葛山景倫は高野山で知り合った心地覚心に、自分の代わりに渡宋を勧め、資金援助した。

心地覚心が帰国すると、安貞元年(1227年)葛山景倫は由良の地に西方寺を建てて、

心地覚心を開山に迎えた。葛山氏が建てた寺は、西方浄土を夢みていた実朝の願いを

受けて「西方寺」と名付けられたのだった。

その「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝時代、南朝の二代後村上天皇の御代。

南朝の元号である「興国元年(1340)」年と考えられる。創建から100年以上立ち

西方寺が南朝方に加担したためである。

北条早雲(正しくは伊勢新九郎)が駿河に入り甥の龍王丸を補佐して今川家当主にし、

富士郡下方を与えられたのは 長享元年(1487)。その城が「興国寺城」というのだが

それは江戸時代になっての創作話にすぎない。

なぜ、城の名前が「興国寺城」というのかも解せない。

沼津の興国寺については、その創建は全く不明。

推測をすれば、葛山氏の一族の者が、由良の興国寺の分寺として建てたのか。

 

北条早雲(伊勢新九郎)は、この地の豪族葛山氏の娘を妻に迎えている。

その子が北条幻庵である。幻庵は母方の葛山姓を名乗ってもいた。

幻庵は尺八(一節切)の名手で、小田原北条家の家臣は大かた尺八を吹けた。

その小田原北条家が秀吉によって滅ぼされ、最後の当主北条氏直は高野山に幽閉された。

高野山には「小田原別所」と呼ぶ所がある。

氏直は翌年には死去し、付き従っていた家臣300名は浪人となり諸国に散らばっていった。

 

ここからは私の推論だが、その家臣の一部が向かった先が、葛山氏ゆかりの紀州由良の

興国寺ではなかったか。興国寺は当時、信長の命を受けた秀吉によって破壊され

廃墟となっていた。その後浅野氏が入封した際、興国寺の廃墟には虚無僧が住んでいた

との記録がある。

紀州由良の興国寺の開山法燈国師心地覚心が、普化宗の日本開祖とされたのは

虚無僧となった北条家の遺臣たちによって作られたのではないか、というのが

私の推論である。

 

 


二人の幻庵

2019-05-09 19:54:53 | 戦国武将と城

ネットで「毛利輝元が、関が原の後隠居し、「幻庵宗瑞」と号した
と知ってビックリ。

「幻庵」といえば、北条早雲の第三子で、北条五代にわたって生きた                                       「北条幻庵」。

「宗瑞」は、北条早雲の法号。「宗」の字は大徳寺派の名。
北条早雲の菩提寺「早雲寺」の開基は大徳寺から招いている。

毛利元就がなぜ、北条早雲の「宗瑞」と、その子の北条幻庵の号を
付けたのか。偶然ではないような気がする。ちなみに生歿年は

北条早雲宗瑞 1432 -  1519年歿
北条長綱幻庵 1500年頃?-1589
毛利幻庵宗瑞 1553 -  1625  

毛利輝元にとって北条早雲は 100年も前の人。北条幻庵は
半世紀ほど前。接点はないようだ。

大徳寺で調べてみると、大徳寺の塔頭(たっちゅう=子院)のひとつ
黄梅院が毛利氏の菩提寺となっていた。黄梅院は、信長の父信秀が
開基。信長は最初ここで密葬された。秀吉の死後、小早川隆景が
改築し、毛利家の菩提寺となった。しかし、織田信秀・小早川隆景・
毛利元就・蒲生氏郷の墓はあるが、輝元の墓は無い。

秀吉の小田原北条攻めの際、毛利輝元は京都の守護に当たって
いたから、直接は戦いには参加していない。

はてさて、毛利輝元と北条氏の秘密の接点、どなたかご存知の方
教えてたもれ、と以前書いたところ、お二人から回答いただいた。

一人は「全く関係ありません。単なる偶然の一致」。もう一人は

「関ケ原で領地を減封され、徳川への恨みから、北条氏に思いを寄せたのでは」と。