「東日流」と書いて「つがる」と読ませる。青森県の「津軽」のこと。
『東日流外三郡誌』とは、1970年代に、青森県五所川原市の「和田喜八郎」が、
「自宅を改築中に天井裏から落ちてきた」として公開した古文書。
数百冊にのぼる膨大な文書で、「古代の津軽地方には高度な文明が
栄えていた」という内容。
「遮光器土偶」の姿をした「荒覇吐(アラハバキ)」という一族も
登場する。
古代「邪馬台国」についても詳細な記述があり、人々を驚かせた。
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「太古に於いては日本海は湖で、南北の海洋はみな陸で支那、韓土に
続いていた。よって北方から渡って来たものが多い。流鬼国の流鬼族、
日高国の毛奴呂族、東日流の阿曽部族、出羽陸奥国の津保化族、坂東国の
宇津味族、越国の那賀美化族、信州の津耶那族、山城の津止味化族、
因州の伊都毛族、大和の那津味化族、淡津の賀止利族、南海道の狼族、
備州の荒味化族と宇津奴族、筑紫国の猿田族と熊襲族、琉球国の高砂族
があった。これら諸族の人数は二百五十万人で、二百万人は北方渡来民と
云われる。ここから安住の国造りを成したのが耶馬台国の那津味毛族である。
この一族に三人姉妹の霊媒師があらわれ、その名を日神子(ヒミコ)、
地神子(チミコ)、水神子(ミミコ)という。彼女等は大衆に神の
崇拝を説くカミクラヤ(神殿)を築き、耶馬台五畿七道の民はことごとく
寄せ集まった。耶馬台国とは日の本国の称号で、流鬼国、日高国、
日高見国、坂東国、越国、出雲国、信濃国、耶馬台国、南海道国、
筑紫国、高砂国、東日流国のことを云う。
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と、偽書にしては驚くべき想像力と創作力。さらに中世については
「十三湊(とさみなと)」は、源義家に滅ぼされた「安倍貞任」の
遺児を祖とする「安東氏」が支配する「安東国」の首都で、満洲や
中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアとの貿易で栄えていた。
中国人・インド人・アラビア人・欧州人などが多数の異人館を営んで
いて、カトリックの教会もあった。北朝鮮と接する中国(旧満州)の
「安東」(現、丹東市)は、安東氏が中国に築いた国という。
しかし、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)または1341年
(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって、十三湊は
壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。
「十三湊」は、津軽半島の日本海側ほぼ中央にあり、岩木川の河口に
形成された「十三湖(じゅうさんこ)」の西岸に位置する。平成3年
以降発掘調査が行われ、13世紀初頭から15世紀後半に栄えていた
広大な遺跡群が確認された。しかし、津波の痕跡は発見されていない。
発掘調査によって、中世までかなり栄えていたことが確認された
にもかかわらず、『東日流外三郡誌』は、今日では「偽書」とされる。
「偽書」とする理由は、「原本」が無く、すべて和田氏の筆跡。
用語に現代語がある。紙が明治のものもある。紙を古く見せるために
使用したとみられる「尿」を貯蔵していたなどなど。
次から次と「古文書」が出てくるが、和田氏の邸宅は 昭和の建築で、
屋根裏から落ちてくるはずがない。これだけ膨大な史料を隠す
スペースも無かったことが、NHKの取材で明らかにされている。
さて、真贋論争が決着したはずだったが、1999年に和田氏が
亡くなった後、2006年、和田氏の遺品の中から、寛政時代に
書かれたという「原本」が発見され、さらに新たに『東日流
“内”三郡誌』までが出たきた。しかし、これも和田氏の祖父の
筆跡に似ているという。
どうしてこうも後から後から出てくるのか、まったく、せっせ
せっせと書き続けた和田氏の祖父とは 何者なのか。なにせ、
ダーウィンの進化論やビックバンまで登場するので、相当の
知識と想像力、創作力が要求される。その能力は小説家より
すごい。
しかしその中には、考えさせられる伝説もあるのである。
私が生まれ育った家(目黒区祐天寺)の近くに「熊沢天皇」の
家があった。「熊沢天皇(=熊沢寛道)」のことは、もう
知る人も少なくなったが、戦後、「吾こそは南朝の正統なる
皇位継承者である」と名乗り出て、昭和天皇に退位を迫った
人物である。
1889年(明治22)生まれ。1966年(昭和41)77歳で
亡くなった。名古屋の北、一宮の「熊沢大然」の養子となり、
「三種の神器」を継承した。それで、名古屋では、熊沢天皇の
話題がたまに出る。東京の家は、どうやらお妾さんの家だったらしい。
「熊沢」氏の主張によれば、「熊沢家は、南朝の後亀山天皇の子孫で、
尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ。南朝9代目の天皇
「熊野宮信雅王」に始まる家系で、熊野宮の「熊」と 奥州の地名
沢邑の「沢」をとって「熊沢」姓を名乗った。
その「熊沢」氏は、『竹内文書』を所持していたという。
その「竹内文書」ほか宝物 4,000点は、どういう経路か、福島県
双葉郡葛尾村の「光福寺(後に観福寺)」という南朝方の寺に
保管されていたが、明治中期に「斎藤慈教」という虚無僧によって
盗み出された。その後、1920年(大正9年)に、「竹内巨麿」が
古物商から買い取ったものと主張している。
一方「竹内巨麿」は、「武内宿禰」の子孫と称し、「竹内文書」は
神代の昔から、4代ごとに書き写してきたものと主張し、1910年
(明治43)、「竹内文書」と神宝類を「経典」として、茨城県の
磯原に「皇祖皇太神宮」を建立し、「天津教」を開いた。
「熊沢天皇」が所持していて盗まれたものという主張に 反論した
形跡が見られないのが不思議。
「竹内巨麿」が「竹内文書」や神宝類を一般に公開するように
なったのは1928年(昭和3)だから、「1920年(大正9年)に
古物商から買い取ったというのも、可能性はありそう。
それにしても、南朝と虚無僧の奇妙なつながりをここにも感じる。
「竹内文書」の内容は、世界的、壮大なスケールで、原始
神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる
超古代文明の興亡、日本皇統の始まりを伝える。
これには多くの学者が「偽書」とし、「明治になって創作された
もの」という鑑定結果が出されている。
『古事記』『日本書紀』や中世の正当な歴史書とはまったく
かけ離れた荒唐無稽な内容で、今日、信ずる者はいないが、
それにしても、これを書いた人の想像力、超能力には驚かされる。