現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「宮城道雄」 絶望の時

2020-01-27 19:09:54 | 筝尺八演奏家

宮城道雄「音の世界に生きる」  

 
    幸ありて  

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管(おうしかん)を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。  


9歳で完全に失明した時は、あきらめ、開き直り、箏の道で生きる決心を

したが、耳が聞こえなくなったら 「 もう 自殺するよりほかはない」と。

「絶望名言」の頭木弘樹さんも、この点に注目。人は絶望して死にたいと

思う時はどういう時なのか。失恋した時?事業に失敗した時?夢や希望、

望みが閉ざされた時?。

 

宮城道雄は、ヘレンケラーが来日した時、面会し、大変感動したという。

ヘレンケラーは目も見えない、耳も聞こえない、口もきけないの三重苦で、

立派に生き、世界中の人に勇気と希望を与えていると。

また、ベートーベンは、耳が聞こえなくなってから 「運命」など 優れた

楽曲を作曲した。

手、足、目、耳、口が不自由でも、目だけで パソコンを使って意思表示が

できる時代になった。できることをやればいいと頭木氏。彼も難病で、

ベッドに横たわったままで、こうして、本を何冊も出版し、時の人となっている。


宮城道雄 耳で見える

2020-01-27 19:09:27 | 筝尺八演奏家

宮城道雄「音の世界に生きる」  

  今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。

 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になった。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。  

    声を見る  

 音声によって その人の職業を判断して滅多に誤ることがない。 


 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。

  年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。

  同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。 

 声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。  

 

私のところに尺八を習いにきている全盲のSさんも、同じことをいっている。

「山口百恵は目がすわってますね」と。

「なんでわかるの?」と問う私に「声でわかりますよ」と。

美人かどうかもわかるという。


宮城道雄 「音の世界に生きる者の悟り」とは

2020-01-27 19:08:47 | 筝尺八演奏家

宮城道雄「音の世界に生きる」  

 

   音に生きる  

 私は子供の時には非常に負けず嫌いで、喧嘩しても議論しても負けるのが何より厭だった。それがこうして音の世界に生きるようになってからは、不思議に気持が落著いて来て、負け嫌いどころか、負けることが好きなくらいになった。大概のことは人に勝たしてあげたいと思うのである。  


 決して人と争わぬ。人の意見に反対しない。若い頃には直ぐ怒ったものであるが、この頃は腹が立たなくなった。

 芸に就いても、かつては他流の人とでも弾く時には、何か一種の競争意識というか、戦闘気分といったようなものに支配されたものであるが、今はそうでない。誰とやっても静かな気持である。先ず人を立ててその中に自分自らも生きようと希う気持だけである。



 それでよく弟子達に、「先生は誰にでも頭を下げるから威厳がない」と叱られたりするが、しかし私は自分の値打を自分で拵えて人に見せようというような気持にはなれない。 

 これは何も私が修養が出来ているかのように仄かすのではない。およそ音の世界に生きる者のすべてが自然に持つ、一つの悟りとでもいうべき心境であろう。有難いと思う。私はいま別に信仰というものはないが、強いていえば、私にとって音楽は一つの宗教である。 

 

これは、今の私も全く同感。つい数年前までは、ささいな事にも腹を立てていたが、今は全く腹が立たなくなった。「人と競わない。他人と比較しない」それこそ普化宗の唯一の教義である。

最近では、私のことを 「こんなに偉い先生なのに」「私達とは口もきいてもらえない方なのに」などと云ってくださる方がいる。「虚無僧はタダの乞食」と笑って答える私。自分が最低の人間と思うと、えらぶる心も、人を見下す心も失せるものである。これが虚無僧としての修行だったかと最近ようやく気付く。

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