現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

福沢桃介とマダム貞奴の愛の巣「双葉館」

2020-01-25 21:11:03 | 虚無僧日記

今日は、東区にある「双葉館」を案内することに。

ここは、電力王と呼ばれた福沢桃介と日本の女優第一号「マダム貞奴」の邸宅。

福沢桃介は、埼玉県の農家岩崎紀一の次男として、1868年に生まれる。

慶応から明治に変わった年。

慶應義塾に入学、運動会で、福沢諭吉の次女「お房(ふさ)」さんに見初められ、

結婚。「結婚したら男性側の姓を名乗らなければならないというのはおかしい」と

云う福沢諭吉の言によって、養子ではないが「福沢」姓となる。

ヨーロッパ留学後、木曽川の電源開発事業に取り組み、「日本の電力王」となる。

病床にあった時、株の売買を研究し、莫大な財産を築く。

桃介が名古屋を拠点とした中部地方の事業に関わるようになったのは、明治42年、

慶應出身の矢田績(やだせき)(三井銀行名古屋支店長)の勧めで、

名古屋電燈の株を買い占めて筆頭株主になったことからである。

桃介が関わった中部地方の企業は大同特殊鋼など22に上る。

名古屋電燈本社のあった所は、現在中部電力による「でんきの科学館」

(名古屋地下鉄伏見駅下車すぐ)となっている。コンサートホールもあり、

私も何度か使わせてもらっている。

その四階の片隅に「でんき資料室」があり、大理石の桃介胸像や

桃介の書「水然而火」(水燃えて火となす)など、桃介関係の資料が

いくつか陳列されているが、気に留める人は全くいない。

大正6年の賤母(しずも)発電所起工を皮切りに、7年大桑発電所、10年須原発電所、大井発電所、読書(よみかき)発電所、11年桃山発電所、13年落合発電所を起工し、木曽川に七つの発電所を完成させた。以上のような経緯があって、桃介は本拠地を名古屋に移し、貞奴やっこと同居するようになった。その昔、14歳の貞奴と十七歳の桃介は偶然出会い、お互い淡い恋心を持つようになっていたが、貞奴は芸者として伊藤博文を始め明治の元勲の贔屓(ひいき)となり、明治24年に川上音二郎と結婚し、女優として一世を風靡した。音二郎が明治44年逝去してから、桃介の援助を受けるようになっていたが、女優を引退して桃介との同居に至った。

大正九年ごろには、名古屋市東区東二葉町(現白壁三丁目九・十・十三)、台地の北端にあって遠く御嶽山を望む二千坪という広大な敷地に「二葉(ふたば)御殿」と呼ばれるほどの豪邸を建てた。表札には「川上貞」と記され、名義も貞奴のものであったが、資金は桃介が調達した。木曽川電源開発を進める上で大切な政治家や財界人を招き、その接待に貞奴が当たるという場にふさわしく、大広間は円形のソファーがあり、ステンドグラスで装飾され、螺旋階段で二階へ上がるという優雅な雰囲気を醸し出している。昭和13年に売却されてから、敷地は分割され、建物も一部取り壊されたが、平成十二年建物が名古屋市に寄贈され、平成17年2月、東区橦木町(しゅもくちょう)三丁目に移築・復元が完成し、「文化のみち二葉館」として公開されている。

 

 

旧島原藩黒門 (慶應義塾福澤研究センター所蔵)
 
二葉館

 木曽川電源開発の現地監督用別荘としては、大正8年、南木曽(なぎそ)駅から木曽川を渡った地に大洞山荘(大同電力一号社宅)を建設した。洒落た総二階建ての洋館の山荘に、桃介は貞奴を連れて滞在し、発電所建設の陣頭指揮に当たった。昭和35年に火災で二階を焼失したが、貞奴、音二郎、桃介を描いたNHK大河ドラマ「春の波顰」の放映に合わせて、昭和60年に「福澤桃介記念館」として公開され、平成9年に当初の二階建ての姿に復元された。

 

 この山荘から程近いところに、読書発電所の建設資材運搬用として木曽川に架けられた全長247mのつり橋がある。「桃之橋」と命名されたが、「桃介橋」という呼称で定着してしまった。昭和53年には老朽化のため、通行不能となってしまったが、平成5年復元工事が完成し、通行可能になった。そして、桃介橋、読書発電所、そして読書発電所への導水路の柿其水路橋が国の重要文化財(近代化遺産)に指定されている。読書発電所の建物は、半円の窓や屋上に突き出た明かり窓、飾り壁などアールデコ調のデザインになっているが、桃介が手懸けた7つの発電所は、現代の発電所に見られる無機質なデザインでなく、どの発電所にも特徴的な意匠が加えられ、個性あるものになっている。

 


10/31 文化の道「双葉館」

2020-01-25 20:46:07 | 虚無僧日記

今日は、東区のある集りで、「双葉館」をご案内することに。

「双葉館」は、日本最初の女優「マダム貞奴」と、
そのパトロン、福沢諭吉の娘婿で、電力王と言わ
れた福沢桃介の邸宅。今は、名古屋市が管理し、
公開されている。

福沢桃介の東京広尾の邸宅は、戦後、千代田生命が
買取り、研修センターとなっていた。
私は、そこに勤務していた。

福沢桃介は、明治元年(1868年)6月25日埼玉県吉見町で生まれ、幼少の頃埼玉県川越市に一家で移住しています。慶応義塾に入塾したのが縁で、天性の明敏かつ努力家の桃介は福沢諭吉に見込まれ養子となり、アメリカに留学しています。明治40年代から名古屋を中心とする実業界で活躍し、幾多の事業を手掛けています。電気事業に関係するようになったのは明治41年からで、木曽川水力発電の開発に特に情熱を注ぎました。大正8年に賤母発電所を築き、大正12年の読書発電所竢工の頃が彼の絶頂期だと言えます。電力王とも呼ばれ、日本近代産業の振興に大きな足跡を残し、昭和13年(1938年)2月15日に69才の生涯を閉じました。

川上貞奴は東京に生まれ、長ずるに及んで芸姑となり、明治顕官らの贔屓ひいきを受けましたが、明治23年に川上音二郎と結婚し、以後、新派演劇の発展に尽力しました。日本で最初の女優とうたわれました。
 桃介は、木曽川水系に多くの発電所を建設しましたが、その現地の宿舎として、風光明媚な三留野の地に別荘をもうけ現場の指導にあたりました。その際、しばしば貞奴を伴って、避暑のために長期逗留しました。貞奴が三留野駅(現南木曽駅)に降り立つたびに、高名な女優を一目見ようと、黒山の人だかりだったといいます。
 電力王桃介と女優貞奴のロマンスは、当時地元の人々の間でも注目の的でした。
内部一階展示室
 

 


南京虐殺はあったのか

2020-01-25 20:16:12 | 太平洋戦争

中国慰問団を調べていて、『最後の殿様 徳川義親自伝』
「中国侵略軍を慰問する」という一文にゆき当たった。
徳川義親は、尾張徳川家の第19代当主。

「南京虐殺」について、吉本の芸人たちで構成された「わら
わし隊」でも触れられているが、徳川義親の伝記にも、こう
書かれていた。


「"あれを撃て"
 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、
 日本軍が南京で大殺戮を行なった。今日では、南京虐殺は、
 まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが
 聞いたのは、数万人の中国民衆を殺傷したということである。
 しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐で
 あるということを、藤田くんが語っていた。 長くんとは僕も
 親しい。

 藤田君は、僕が中国を去った後も、まだ上海に留まっていた。
 麻薬の後始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、
 南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。

 二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口が
 ほぐれたのか、長中佐は藤田君にこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもを
 混じえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。その中に多数の
 中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、
 後で戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に
 長中佐は、「あれを撃て」と命令した。中国兵がまぎれているとは
 いえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士は躊躇して
 撃たなかった。それで長中佐は激怒して「人を殺すのはこうするん
 じゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。驚いた他の
 兵隊が、一斉に機関銃を発射し、大殺戮となったという。

 長中佐が白慢気にこの話を藤田君にしたので、藤田君は驚いて、
「長、その話だけは誰にもするなよ」 と厳重に口どめしたという。


最後にこんな一文がある。

「ぼくは東京に帰りついた。 橋本欣五郎くんから軍用葉書が
 きていた。  (中略)
 橋本くんは満州事変の謀略に参画したが、山海関から先へ、
 長城をこえて中国本土には絶対に侵入しない。すれば日本の
 敗北である、と確信し、公言もし、僕にも語っていた。

  すでにこのとき、日本の敗北を予想していたのだろう。
 橋本くんはかねてから、『近い将来に、マッチ箱ほどの大きさの
 爆弾で、何万人、何十万人と殺裁できる時代がくる。だから
 決して、戦争はしてはならない』、といっていた」と。

南京事件の年の事だから、昭和12年である。その時すでに原爆開発
の噂は流れていたのだ。



「相撲は国技」は詐称

2020-01-25 19:46:32 | 社会問題

先日クイズで「剣道、柔道、野球、相撲のうち国技は?」というのがあった。                            正解答は「すべて国技ではない」。理由は、「国技に関する法律が無い」から。

女性が土俵に上がったことで「国技論争」が起きたが、                                   
そもそも相撲は『国技』ではありません。
かつての文部省に見解を尋ねたところ、文部省としても
「相撲を国技と定めた事実はない」との回答でした。


「土俵は丸いのに “角界”とはこれいかに?」
「角界とは、中国の武術の力比べを意味する『角力』
からきているそうで、名称からして「日本の国技」では
ないことになります。



貞奴を救ったのは虚無僧

2020-01-25 19:42:02 | 虚無僧日記

犬山城のある愛知県犬山市から木曽川を渡れば、そこは
岐阜県の各務原(かがみはら)市の鵜沼(うぬま)。
JR鵜沼駅から国道21号線を北へ歩くこと1時間。
昭和8年に、マダム貞奴が私費を投じて立てた「貞照寺」
あります。結構大きな寺で、貞奴は昭和21年に亡くなり、
ここに葬られています。桃介より立派な墓です。

貞奴は「不動明王」を信仰していたそうで、今は、犬山の
成田山の管理下にあります。

その本堂の外側に、貞奴の生涯が見事な木彫りで描かれて
います。その3枚目。

「貞奴が19歳の時、箱根の山中で悪漢に襲われた時、
不動明王の威徳で、忽然一人の「普化僧」が現れ
暴漢を追い払った」という解説なのですが・・・・・。

この彫り師は、「普化僧」が「普化禅師を始祖と仰ぐ虚無僧」
のこととは知らなかったようです。普通の托鉢僧になって
います。ザンネン。昭和8年頃でも「虚無僧=普化僧」と
いうことは一般には知られていなかったのですね。

今ではもっと誰も知らない。誰も「おかしい」と気づいて
くれない。寺務所の留守居の人にその旨話したのですが
「それがどうした?」てな顔で、全く無視されてしまい
ました。そこで尺八をホロホロと吹いて供養してきました。

日本最初の女優として名を馳せた「貞奴」でしたが、
昭和13年にパトロンでありビジネスパートナーだった
福沢桃介に去られて以後、淋しい晩年だったようです。
そんな貞奴を偲ばせるような淋しいお寺です。みなさん、
ぜひお参りに行ってください。