現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「青天を衝け」渋沢栄一

2021-02-14 21:06:32 | テレビ・映画・芸能人

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」が、あわただしく終わって、感想も書けないままに、今日2月14日から青天を衝け」が始まった。日本資本主義の父といわれた渋沢栄一のドラマ。電力、水道、銀行など500社もの創設に関わった偉大な人物という割には、いままで注目されてこなかった。福沢諭吉に代わって新一万円札の顔になるのだが、「誰? それ」という人が多いとか。

私の家に渋沢栄一の書があった。「青淵(せいえん)」という号が渋沢栄一だと子供の頃から聞いていたので、渋沢栄一には関心があった。

深谷の生家も虚無僧で訪ねた。深谷の駅には「渋沢栄一の展示室」もあった。

深谷駅

渋沢栄一記念館

千代田生命本社の隣りに渋沢栄一の子孫の方が住んでおられ、訪ねたこともあった。白髪の総髪ですごく品のいい風格のある方でした。

 

保険の営業であるお宅を訪ねた時、玄関に「青淵」の額が掛けられていて、「渋沢栄一ですね」というと、その方にすっかり気に入られ、土門拳の写真集など、貴重な品をいただいたことがあった。

 

さて、NHK大河ドラマ 第一回の今日。渋沢栄一の生地が「岡部陣屋」で、なんと髙島秋汎が幽閉されていた所と知った。

高島秋帆(1798~1866年)は長崎の町年寄の家に生まれ、オランダ人を通じて砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始したが、中傷により投獄された。1846~53年に岡部藩預かりとなって幽囚(投獄)されていた。

罪人とされた高島だったが、岡部藩では客分扱いとして藩士に兵学を指導していた。この時渋沢栄一と接触があったかは不明だが、渋沢が高島秋汎から西洋の風を受けたという設定はなるほどと感心。

ペリー来航後に幕府に赦免され、砲術方教授を務めた。西洋式兵学の先駆者だった。江戸幕府瓦解の二年前に死去。

高島秋汎幽閉の地


紅花の産地だった「長南町」

2021-02-14 20:02:27 | わが家のこと

長南(ちょうなん)町」のガイドブックに「紅花と言えば山形ですが、紅花の原産地はここ長南町で、室町時代に武田に攻められ、敗れた長南一族が山形に逃れて、紅花を山形に伝えた」とありました。

 

ネットで見ると「長南」姓は山形に多く、「全国長南会」という組織が「長南氏」の歴史について詳しく調べています。

1456 古河公方の命で武田信長、長南に侵入。長南修理介常春(23)降伏。
1459 長南氏義、千葉氏に抗す
1476 長南氏、出羽最上の清水氏に召し抱えらる

この時「紅花」を山形に持ち込んだのでしょうか。随分昔のことです。

しかし、山形での紅花の栽培が盛んになり、「国産品」として出荷されるようになるのは、江戸時代の後半のようです。


私の推測ですが、小田原北条氏滅亡後、信濃高遠の保科正光がこの地を支配しており、10年後、大阪の陣以後、高遠に戻り、後、保科正之の代に山形へ移封、さらに会津に転封となります。
紅花は会津でも栽培されるようになっており、長南の紅花は保科氏によって山形、会津に伝えられたのではないかと。

会津の蕎麦(ソバ)は、保科氏が信州から伝えたというのはよく知られた話です。高遠の人が言っていました。保科家の会津移住の際、蕎麦職人と蕎麦の種をみんな持っていってしまったため、高遠からは蕎麦屋が いなくなった」と。

紅花もそうではなかったかと思うのです。

『山室家譜伝記』によれば、山室氏を滅ぼした後の領主となった保科正道の娘が「長南御前」といい、化粧料として5千石の地を与えられていたとのこと。

「長南町」の由来については、地元の人に聞いても「知らない」というのですが、「長南御前」の御料地だったと知って驚きです。「長南町」には「御所館」という城跡もありました。

思えば、父の納骨の日、家族で「笠森観音」に詣でました。その時、父の遺骨は 車の中に置いていったのですが、後で写真を現像して驚きました。母の側に白いかげが付きまとっているのです。これぞ父の「心霊写真」かと今でも思っています。