海南行 <細川 頼之>
人生五十 功無きを愧ず
花木春過ぎて 夏已に中ばなり
満室の蒼蠅 掃えども去り難し
起って禅榻を尋ねて 清風に臥せん
詩の意味
もはや50歳となったが、何の功績もないのが恥ずかしい。春も過ぎて、今はもう夏の半ばである。
青蠅が部屋いっぱいに飛び回って、払っても去らないように、讒言(ざんげん)がうるさいから、禅門に入って、清らかな風の吹くところで余生を送りたいものだ。
青蠅が部屋いっぱいに飛び回って、払っても去らないように、讒言(ざんげん)がうるさいから、禅門に入って、清らかな風の吹くところで余生を送りたいものだ。
詩吟でよく吟じられる『海南行(かいなんこう)』だが、作者の細川頼之について知る人は少ない。
細川 頼之(1329年~1392年)。なんと生まれは三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)
足利三代将軍義満がまだ11歳であったため、管領として政務の実権を握り、南朝の楠木正儀との和睦に努める。しかし義満が長じると、山名、斯波、土岐氏らのクーデターによって失脚し、領国の四国に下り隠遁する。この「海南行」はその時の心情を詩にしたもの。
本郷恵子さんの「室町将軍の権力」を読んでいたら、面白い記述がありました。
1367年、三井寺園城寺の稚児が、南禅寺が管理していた関所で関銭支払いを拒否したところ、乱暴され、死んでしまった様で、怒った園城寺の僧たちが報復に繰り出しました。関所を管理していた南禅寺の僧侶など七~八名を殺害し、関所を破却したことで、禅宗(ここでは臨済宗)と旧来の仏教勢力の緊張が一気に高まります。南北朝時代、公家・武家共に禅宗に傾倒した人が増えたので、国家鎮護を謳う天台宗側は危機感を覚え、園城寺は比叡山延暦寺と協同して、禅宗排斥に乗り出しました。この後、南禅寺の住持が、延暦寺の連中は人でなく大猿、園城寺の連中は畜生以下の蝦蟇と、激烈な密教攻撃を展開したので、激怒した延暦寺は、翌年、お家芸の神輿を繰り出しての嗷訴を行い、南禅寺楼門の破却と住持の流罪を要求。朝廷・幕府が禅宗を不当に優遇していると激しく非難しました。
日吉社や祇園社、北野社も同調して神輿を担ぎだして幕府に圧力をかけたので、幕府の実質トップ・管領細川頼之もたまらず、延暦寺に屈し、南禅寺の新造楼門を破却させました。南禅寺側も反発し、上層部の僧侶が一斉に頼之との関係を絶ちます。
宗教統制に失敗した頼之は大いに威信を失墜しました。さらに、1371年には、南都仏教の代表・興福寺も門跡の解任を要求して入京。神木を京都に放置(これをされると、全藤原氏が出仕を控える必要があり、朝廷の政務がストップしてしまう)。三年間もその状態が続く異常事態に。
こうした混乱に加え、守護分国の調停や対南朝政策でも頼之は失敗を重ねます。ついに1379年、斯波義将を筆頭とする主だった守護が頼之排斥に動き出し、頼之は自邸を焼いて四国に逃れました。(康暦の政変)
一連の騒動で禅宗は押され気味に見えますが、天台宗や興福寺のやり方は余りにも理不尽だと思われた様で、禅宗の存在感と影響力はむしろ上がった様です。頼之に代わって管領となった義将と足利義満の下、南禅寺は五山の上の別格寺院となり、五山十刹が整った禅宗はさらに幕府との関係を強化し、外交・文化・教育に加えて財政政策にまで強く影響を及ぼすことになりました。
南禅寺の現在の三門は、1628年に再建されたものです。