「尺八は、脛(スネ)の骨のラテン語『tibia』に、
中国で『尺八』という漢字が当てられたのだ」と
いい続けて30年。なかなか定説を覆せず、いまだに、
誰もが「一尺八寸」説を信じて疑わない。だが、
Wikipediaで「tibia」を検索すると、次の一文がある
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「Tibiaというラテン語名詞には“スネの骨”のほかに
“笛”の意味もある。「Tibia(tuba笛)」から変じたと
いう節もあるし、また古代の笛は鳥のスネの骨で作られ
ていたので、tibiaはもともとスネの骨を指すのだとも言う。
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そして、「東北大学整形外科学教室」のホームページに、
「骨」の解説で、私と類似の説が載っていた。
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かつて、人類は石器や青銅器の外に、種々の骨を道具に用いた。
殊に人の頭蓋骨は霊力が宿るものとして、祭儀に酒を盛る杯と
したりした。人骨文化と呼ばれるものである。古代エジプトでは
脛骨( sebi )で縦笛を作り、その縦笛をも「 sebi 」と呼んでいた。
それがローマに入って「 tibia 」となり、後に脛骨のラテン語
解剖名に採用されるに至った。
片や「 sebi 」は近東からシルクロードを経て唐代の中国に
伝わり、(sepa)に「尺八」の漢字が当てられた。そう言わ
れれば、日本の尺八が脛骨の形に似ているのが頷ける。「尺八の
長さは一尺八寸」と言うのは、後世のこじつけであるらしい。
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後半が違う。「尺八」を中国人は「チュィパ」と発音する。
「中国には「sebi」ではなく「tibia」から変じて「tuba
チュイパ」と伝わって「尺八」という漢字が当てられた、
というのが私の説。
ローマ時代、笛の総称は「tibia(ティピア)」だった。
脛骨(ティピア)は「チューブ」すなわち「管」。中国では、
古代「尺八」のことを「管」とも記述している。
そして、洋楽器の「チューバ」、南米の「ケーナ」も同じ
語源ではないだろうかと私は考えている。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
『名古屋叢書』 第16巻 風俗芸能編(1) P.321
「尾陽戯場事始」巻之上
「尾張人物誌」に曰く。「名古屋三左衛門は、古渡村の人。
幼名 山三郎。 初め 蒲生氏郷に仕え、後、森右近忠政に
仕え、禄 三千石。容顔美麗、天下の男女一目見る者あらば
必ず、心動かさざること無し。 しかし、後に浪人し、出雲の
於国という巫女と妹背の契りをなし、京都北野に踊り子を
集め、説教節に合わせて舞わせたところ、この道盛んになり、
今の世の芝居の初めなり。
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その挿絵 (名古屋山三郎か?)P.322 大小を差した侍
二人が描かれていて、その一人が、虚無僧のかぶる
天蓋のような深編み笠をかぶっている。
虚無僧の天蓋は、虚無僧独自のものではなく、元禄の頃
一般武士のかぶりものだったのだろうか。
名古屋は「芸どころ」といわれるが、歌舞伎の中村座も
名古屋発である。
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P.325 江戸芝居は中村勘三郎を元祖とす。生国は尾張・
末広村の百姓。 源君(家康公)江戸城築城のみぎり、
材木、石など運びける中に、一人音声大にして美声で
木やり音頭を囃しける者あり。源君、その者を御前に召し、
名と出所を問うに、「終わりに末広とは吉兆なり」と、
陣羽織と采配を下され、人夫頭とする。
そして「城普請 成就の後は、なんなりと褒美をとらす」と。
勘三郎は大いに喜び、江戸にて 芝居狂言永代御免 の
儀を願い出、許される。
幕末、慶応3年に起きた「えぇじゃないか」踊りも、名古屋発
とのこと。
西暦1999年、中国河南省にある賈湖の新石器
時代初期の集落の遺跡から、年代が明らかな
完全で音の出るものとしては世界最古とみられ
る縦笛が出土したことが、英科学誌「ネイチャー」
に同年9月23日に掲載された。
年代は、約9000年前から7700年前のもので、
裴李嵩文化(紀元前6000年)より相当前である。
これは、放射性炭素で年代測定した発掘層か
ら、およそ30個以上の破片とともに見つかったと
いう。
見事な出来栄えの6本の縦笛は、タンチョウヅ
ルの尺骨(シャッコツ)から作られたもので、
長さ17~24センチ、手孔は表面に5~8個があり、
そのうち(右から2番目)の保存状態の最もよい笛で
実際に音を出し、分析したところ、哀愁を帯びた
柔らかい音色を奏でることができたと伝えられた。
(ついでに)
古代の尺八
写真(上)は、「古代尺八(白竹製)
正倉院に現存する8本の中の3本。
上、北倉階上にある古代尺八、管長(43,8センチ,)。
中、南倉階下にある古代尺八、管長(40,7センチ)。
下、北倉階下にある古代尺八、管長(38,3センチ)。
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ドイツで3万年前の旧石器時代の鷲の骨で作った縦笛が 数本発見されたとのニュースもありました。
尺八はラテン語の「Tibia=臑の骨」「ティピァ」
「チューブ(管)」が、中国で「ちーぱ」と伝わり
「尺八」とう漢字が当てられたのです。中国では
尺八のことを「管」とも書き表していました。
「法隆寺の尺八」
「東京国立博物館」の一画に「法隆寺宝物館」があります。
明治4年の廃仏毀釈運動の波を受けて、法隆寺も財政窮乏し、
明治11(1878)年、三百数十点もの文物を皇室に献上する
ことで、明治政府から1万円の下賜金を得たそうです。
その中に、常用文化財子弟の「尺八」があり、ネットでも
見れます。
7世紀後半、唐楽の演奏楽器として用いられた雅楽尺八と
考えられ、その長さが1尺4寸5分(44cm)なので、
これこそ、唐の小尺の1尺8寸に合致し、基準とされた
尺八と云われています。
中間に竹の節が3節ある細い淡竹(はちく)。表に5孔、
裏に1孔、楕円形の指孔を開け、歌口は斜めに切る。
これと同寸のレプリカを作って吹いてみましたら、ドレ
ミファソラシドになっていました。
『古今目録抄』に、「聖徳太子が、天王寺へむかう途中
椎坂(しいさか)で、この尺八を吹かれたら、山の神が
現れ、尺八に合わせて舞を舞った」ことが記されている
そうです。
(以前書いたものの再掲です)。
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長崎の「松林静風」師が「島原城に展示されている一節切
(ひとよぎり)尺八」について、詳しく調べられている。
この尺八は「天正10年、持舟城にて 松平太郎左衛門
重定公が得たもの」との由緒書きがあるそうな。
天正10年は1582年。武田勝頼が織田・徳川連合軍に
攻められ滅びた年である。その戦勝の酔いも覚めぬうち、
織田信長が本能寺で討たれた年。
「持舟城」とは、現「静岡市用宗」にあった城。もともとは
今川氏の城であったが、武田信玄に攻められ、武田に属し、
「朝比奈(某)」が守っていた。そこへ徳川方が攻めた。
「朝比奈」氏は 元は「今川」の重臣で、徳川家康とは
知己の仲であり、一命を助けられた。その時、武田領
まで護衛に当たったのが「松平重定」。朝比奈氏は、
そのお礼にと、この尺八を譲ったのである。当時
「一節切」は大変“重宝”され、一国一命と交換される
ほどの価値があったのだ。
そして、この尺八は「重定」から子の「覚右衛門」に
相続された。「覚右衛門」は、兄?「松平忠房」が
島原城主となったために、「牧」と改姓し、家臣の
一員として島原に移住した。
長崎には虚無僧寺「玖埼寺(後の松壽軒)」があり、
幕末には「牧新七」という虚無僧がいた。「新七サシ
(薩慈)」という曲も伝来している。この「牧新七」は
「牧覚右衛門」の子孫であろうか。興味深い。
『體源鈔(タイゲンショウ)』は、1515年頃、豊原統秋が
書き残した音楽書。『體源鈔』という題には「豊原」
の二字が隠されている。「豊」には「骨」、「原」には
「さんずい」をつけ、「豊原家の骨であり血である」
との意味が込められている。豊原家は代々、雅楽を
継承する家だが、「鈔」すなわち「金は少なし」の
洒落も含まれているとか。
1515年は、応仁の乱で、京の都も焼け野原となり、
御所まで焼失してしまっていた時代。雅楽も廃れ行く
運命にあった。そのような中で、豊原統秋は、雅楽を
後世へ伝えるべく、この書を編纂したのである。
ヤフー・オークションで「三節切り(みよぎり)尺八を
3,000円で落札した。「江戸時代、本物、自信あり」と
謳っている。
以前にも「唐代の尺八」というのが出た。本物だったら
国宝物だ。嘘に決まっているのだが、詐欺として訴えられる
こともない不思議な世界。骨董品買いは、売り手買い手の
“化かし合い”を楽しむところもある。
尺八は、江戸中期1750年頃から、現在のような根節3段と
上部4節の7節になった。
室町時代は、節が1つの「一節切り」(ひとよぎり)だった。
それが、現在の7節になる過程に「三節切り」が存在して
いたと思われているが、現存するものは極稀れ。わずかに
文献で知れるだけ。
落札した「三節切り尺八」が江戸初期 1,600年代の物だと
すると、大変な発見である。しかし、歌口が琴古スタイル
なのが気になる。どうやら、ただの“練習管”かも。
それとも誰かさんが、意図的に「三節切り」を復元したのか。
「日日是好日」と書いた木板をいただいた。
「ひび」ではなく「にちにち これ こうじつ」と読むそうな。
「辞書を引くと『毎日が平和で楽しい日々であること』と解説されているが、そんな能天気な話ではない。
これは唐の高僧雲門禅師の公案で、厳しい禅の悟りの心境である。良寛は『災難に遭う時は 災難に遭うがよく、死ぬ時が来たれば死ぬがよく候』と言ったごとく、災い、艱難辛苦に逢おうとも、平然と受け入れる心があっての『日日好日』なのだ」と。
私も 良寛の悟り「死ぬ時が来れば死ねばいい」それでいい。医者も要らん。坊さんも要らん。
先日、ある詩吟の会の宗家が亡くなられた。それまで医者にかかったことがないほど元気だったが、急に元気がなくなり検査をしたら、癌が全身に廻り、もう手遅れとのこと。手術もせず2ヶ後に亡くなった。葬儀は多くの会友に見送られて旅発った。
うらやましい“佳き人生”だった。
『體源鈔』(たいげんしょう)は、室町時代の楽書。
『教訓抄』『楽家録』と並び、三大楽書の一つとされる。
雅楽師の「豊原統秋」が、永正9年(1512年)に書き記したもの。
原本は万治4年1月15日(1661年2月14日)の内裏火災で焼失。
東北大学狩野文庫本を底本として山田孝雄が校合、翻刻したものが
「日本古典全集」に収録されている。
それによると、表題は『體源鈔』となっている。「體源」は
それぞれ「つくり」が編者の「豊原」を意味している。「抄」が
「金」偏の『鈔』になっているのは、「日本古典全集」に編纂
した時の誤字かと思われる。「金が少ない」というあてつけか。
「狂雲(一休)」の「雲」を「言」としている。「雲」の行書体を 「言」と誤ったらしい。
さて、この『体源抄』に「尺八」について、こんな逸話が
紹介されている。
「或る書に云(いわ)く。尺八は昔、西国に在りける猿の鳴ける音の
目出たかりけるが、写すなりと」で始まり、この猿の鳴声を聞くと、
人々は涙を流し、道心の志を抱き、太子は宮殿を去り、諸卿は
官職を捨てて山寺に籠もり、道人商客に至るまで、皆無常の理を
催す」。
以下 要約すると、「時の帝王が、『これでは いかん』と
家来に命じて、その猿を殺してしまった。人々嘆き悲しみ、
その猿の遺骸を土に埋めた。その中でも深く悲嘆に暮れる人
ありて、年月わ経て、土を掘り起こして、足の骨を得た。
中は空洞で、風に当てると、猿の鳴声に似た音がした。
これを持って帰って、時に思い出しては、口に当てて、
鳴らしていた。ある知識人が、竹を、それと同じ長さに
切って似たものを作ってみた。吹いてみたが、猿の鳴声には
少し似なかったので、手孔をあけてみたら、猿の鳴声に
よく似た音を出せるようになった。その長さが1尺8寸
だったので「尺八」と名付けた。
と、まぁ、たしかに「尺八」の音色には哀切嫋嫋たる響きが
ある。「猿の骨」で作ったというのが面白い。何万年も昔の
旧石器、9千年~7千年前の新石器時代の遺跡から、鳥の骨
で作った笛が、何本も出土している。
ところで、『体源抄』の、この猿の話。出典が明記されていない。
「西国」から「西域」をイメージして、てっきり中国の話だと
思って、いろいろ検索してみたが、中国の文献には見当たらない。
いつの時代の帝王なのかも不明。日本での創作ではなかろうか。
「尺八」は、中国では「チーパ」と発音する。ローマでは
ラテン語の「tibia(臑の骨)」から派生して、縦笛を
「ティピア」と言った。フルートやクラリネットはラテン語で「tibia」
その「ティピア」がインドから敦煌を経て、中国に伝わり、
「チィーパ」に「尺八」という漢字を当てたのだ。
「チィーパ(尺八)」、「チューブ(管)」、金管楽器の「チューバ」、
そしてラテンの「ケーナ」も、元は、ラテン語の「Tibia」ではないか。
最近、音楽の教科書から「尺八は、その長さが1尺8寸だから
尺八とう」という文言が消えたようだ。
8月の自殺者数が1849人。コロナの死者数をはるかに上回る。
前年同月と比較して240人増。男性は60人増えて1199人、女性は186人増えて650人。
これほど自殺者が増えたのは、コロナ不況の影響か。
今年の7月の調査で、非正規雇用者は前年同月と比較して131万人減少。男性が50万人、女性は81万人。それだけの人が職を失ったのだ。
女性のホームレス化
これが、12年前のリーマンショックとの大きな違いだ。
08年、リーマンショックによる派遣切りの嵐が吹き荒れた際、職を失った多くが製造業派遣で働く男性だった。寮住まいの人が多く、住む場所と仕事を同時に失った人のために「年越し派遣村」が開催されたわけだが、そこを訪れた99%が男性だった。
それが今、「生活に困った」「住む場所を失うかも」と相談してくる女性たちは、「失業」によって即、困窮に晒されている。
12年前と違ったのは、助けてくれる家族の崩壊。
親も貧困、親と不仲、親が病気、すでに親は亡く実家はない、親は死んで実家には兄弟がいるものの、すでに家庭を持っており帰れない等々。
08年には、「4人に1人」だった「家族というセーフティネットに頼れない人」は、今や「3人に1人」「2人に1人」くらいに増えている気がする。
親が亡くなったことや親が施設に入ったことがきっかけで徐々に困窮し、最後の一撃がコロナでの収入減というケースは多いようだ。親の年金が、いかに一部現役世代にとっての命綱となっているかがよくわかる話である。
私もそうだ。12年前はまだ母親も健在で、母の年金からいくらか仕送りしてもらっていた。しかし、今は母も亡くなり、実家は妹夫婦が住んでいて、帰れない。
貧困のかなりの割合を占めるのが若い世代だ。親も貧困で頼れないというケースもあれば、シングルマザー家庭も少なくない。こうした事実を見ても、やはり「家族」は急速に、セーフティネットとしての機能を失っている。
そして今の日本は、残念ながら「困っている人がいたら誰かが手を差し伸べてくれる社会」ではなくなってきた。誰も助けてくれないどころか、そこにつけいる貧困ビジネスのカモにされかねない状況だ。