千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるという噂。
一休の幼名「千菊丸どのへ」となっていて、4歳の時の母の遺言だという。
ところが、千葉県館山市に館山寺など存在しない。原本も所在不明。
後世の創り話だろうが、これを創った人は、実によく一休の
禅をとらえている。
内容は、
釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを
説いたといっても、一字も書き残してしはいないのです。
釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、どこぞの寺の
住職にならなくとも、俗人のままでも苦しからず。
というもの。
一休は、安国寺を飛び出し、15歳の時、西金寺の謙翁の下に
走った。謙翁は大応の法を継ぐ人であったが、そのような
肩書きを否定し、“乞食行” ひと筋の托鉢僧であった。
その師と仰ぐ謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、
路頭に迷うことになった。絶望からか、20歳の時、瀬田川に
身を投げるのである。その時母の声を聞いて生還する。
一休が自殺を図った時の「母の手紙」とする方が納得いく。
経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちによって
書かれたものだ。釈迦は一字も残していない。ならば「経典を
諳んじたところで、釈迦のように修行をしなければ 糞虫と
同じ」と母は言う。「釈迦や達磨も下僕(しもべ)となすほどの
修行を積んで、人々の苦悩を救える人になれたら、
どこぞの寺の住職なんて肩書きはいらないではないですか。
俗人のままだっていいじゃないですか」というのだ。
虚無僧はこの一休を師と仰いでいる。経典も必要ない。
寺も要らない、肩書きもない、教義もない、すべては
己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままなのだ。一休の母がいう、衆生を救うことが
できたら、どこぞの寺の坊さんなんて肩書きはいらない。
それが虚無僧なのだ。