無教会主義の「キリストの幕屋」が発行している『生命の光』という冊子に、付いていたチラシに目を奪われた。
「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき」という古歌があります。この歌を大切にされてきた横田さん。東京大空襲で両親を失い、孤児となって波乱の人生。数奇な運命の中で「生まれる前の父=キリスト」に出会った。
と、いやはや びっくり仰天。
私は、この「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき」の
歌は「一休さん」の作とばかり思いこんでいましたが、
「生まれぬ前の父」が「キリスト」とは、目の覚めるような回答ではありませんか。
そこで、ネットで検索してみると、キリスト教関係者が、結構この歌を利用していることを知りました。いやはや、一休さん、キリスト教にまで影響を与えていたのですね。
いろいろ検索してみると、「この歌は“詠み人知らず”」というのが数点。これは「江戸時代中期の白隠禅師の歌」というのもあり。
「百人一首で覚えた記憶がある」というのも。「これは間違いでしょう」と思ったら、関連記事が ありました。
池田弥三郎の『百人一首故事物語』 河出書房新社, 1984.12.4 「百人一首」の大会で、わざと 無い 歌を詠む。その「から札」の例として、
「鯨吼ゆる 玄界灘をすぎゆけば ゴビの砂漠に 月宿るらむ」そして
「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ先の 父ぞ恋しき」
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「鈴木大拙」は、次のように解説していました。
一休禅師の「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」という道歌があります。
「生まれぬ先の父」こそ「見えないいのち」、「大いなるもの」「如来」であると言えます。
また「鳴かぬ烏の声を聞く」とは、「釈尊の教えたる経文を読み、行を行ずることで聞こえてくる『声なき声』であります。
と、なるほど。「生まれぬ前(先)の父」は、如来であり、キリスト教徒にとっては「キリスト」というわけですな。