今日(2/2)NHKラジオで「日本人が知らない、世界に知られた日本人」として「柴五郎」が取り上げられていた。
柴五郎は 1860(万延元年)会津藩士 柴佐多蔵(280石)の五男として生まれる。
明治元年の会津戦争の時8歳。祖母・母・兄嫁・姉妹は籠城前に「足手まといになっては」と自刃した。
五郎は親戚に預けられていて、戦後 父や兄達と再会する。翌年斗南藩(現 青森県]むつ市)に移住。
食べる物も着る物もない極貧生活の中でも、父は五郎を青森の学校に通わせた。雪の中2里(8Km)の道のりを素足に草鞋履きで通ったという。この話を子供の頃から聞かされている我々会津人は冬でも自宅では足袋(靴下)を履かない。
斗南藩はわずか2年で廃藩置県となり消滅。五郎は東京に出、1873年(明治6年)陸軍幼年学校に入校。
この時、当初、教官はフランス人で、歴史の授業もフランス語でフランスの歴史。その後、ドイツ人に変わり、今度はすべてドイツ語で、夜も寝ずに蝋燭の明かりで勉強したという。
1877年(明治10年)陸軍士官学校に進み、1880年(明治13年)卒業する。士官学校第3期の同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいる。柴五郎は学業優秀でありながら、会津人ということで、出世は一番遅れた。
1884年(明治17年)清国に左遷され、福州・北京に駐在する。
その後、近衛砲兵連隊、陸軍省に勤め、陸軍士官学校教官となる。1895年(明治28年)日清戦争に出征し、5月に帰還、9月イギリス公使館附となる。
1899年(明治32年)10月の陸軍中佐となり1900年(明治33年)、清国公使館附を命ぜられる。
駐在武官として着任まもない5月、義和団の乱が起こる。柴は各国の居留民の保護にあたり、また他国の護衛兵と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、各国からその功を称えられる。
柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を使って情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。これによって、柴は世界で最初に広く知られる日本人となった。
イギリス公使クロード・マクドナルドは、柴と日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ、1901年英国首相ソールズベリー侯爵と会見し、日英同盟の構想を述べ、日英同盟が締結された。柴は日英同盟の影の立役者となった。今日のNHKラジオでも、この点が紹介されていた。
義和団の乱で武勲を立てながらも閑職にまわされ、1919年(大正8年)ようやく陸軍大将となる。
1930年(昭和5年)4月に退役。
1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦後の9月15日に自決を図ったが、死ねず、12月13日に落命する。享年85。
わが家には、柴五郎の書と、私の父(五郎)が出征の時に揮毫してもらった日章旗が有る。