「虚無僧」の語源は「薦僧(こもそう)」。「薦を負い、野宿する僧」、ようするに乞食僧のことだ。その初見は『大内氏壁書』。
大内氏は、室町・戦国時代、周防国(山口県)を本拠に中国地方を支配した大名。その「掟書」。
文明18年(1486)というから、一休が88歳で没した5年後。
「禁制」の中に「薦僧、放下、猿引は、当所ならびに近里より追い払うべし」とある。
「薦僧」は「放下」や「猿回し」と同等にみられ、「見つけ次第追い払え」というのだが、「嫌われ者」というより、他国から流入してくる不審者として警戒されていたようだ。
翌 文明19年には、「異相の仁」、そして「笛、尺八、音曲」は「夜中路頭往来禁止」となっている。
一休と同時代の横川景三が編纂した国語辞典の『節用集』には、「薦僧(コモソウ)・普化(同)」とあって、「普化」と書いて「こもそう」と読ませている。一休の時代には、既に薦僧と普化とが同一視されていたのか。但し、この『節用集』は江戸時代まで、ずっと補筆、加筆されていたらしいので、「普化」は後世の加筆かも。
その50年後、1500年代前半に書かれた『三十二番職人歌合』の絵には「こも僧」、詞書きには「虚妄僧」。
江戸時代初期に書かれた『一休諸国物語』には「一休が普化僧となって」とあり、江戸初期では「虚妄想、普化僧」などと書かれていた。
では「虚無僧」と書いたのは、何時、誰なのか。調べているが不明。活字になったものは後世の人によって虚無僧」と変えている場合がある。「原本」を当たってみると「こもそう」だったり「変体かな」の「古毛そう」だったりするのだ。