現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

高村光太郎「回想録」

2021-06-16 09:16:43 | 虚無僧日記

彫刻家であり詩人の「高村 光太郎 1883年(明治16年) -1956年(昭和31年)」の『回想録』に、「酒井勝軍」の名が出てくる。

高村光太郎『回想録

音楽は私もてんで駄目である。小学校の時に唱歌を教わって、帰って家で歌うと怒られた。そういう中で育ったせいか、曲そのものは解るし、音も頭の中に入っているが、声が出ないのである。だから小学校の時は、先生が弱ってオルガンを弾かせてやっと及第させた。

青年になってからも、本郷の中央会堂の椽たるきの下のところでやっていた「酒井勝軍」のもとに通ったりして、発声の稽古けいこなどしたが、私には 酒井勝軍も驚いた。

音は知っているが、それを出そうとすると 馬鹿に大きな変な声が出るものだから、酒井勝軍も弱って、君は後でやろうなどということになった。

姉も駄目なので、母は「この子は女のくせに三味線が弾けない」といって、変だと言っていた。そして細工物が好きで、画を描いたり、そんな方へばかり行って了うので、父が気がつき、西町に居た時に十歳前後で画を習わせ初めた。師匠は狩野寿信という人であったが、狩野派のやり方のよいことは、稽古の時に決して悪い材料を使わせないということである。

悪いものを使って描いていると上達しないことは事実だ。稽古だからと言って決して悪い材料を使わせないことは、確に立派な方法である。父はその為、貧乏な中に姉に与える材料を買うのに苦労した。姉は絵を習い出すと、めきめきうまくなって、師匠の言うことは眷々(けんけん)服膺(ふくよう)して、熱心に通った。実に師匠思いで、先生から貰ったものは紙一枚でも大切に蔵しまって記念にしていた。

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私(牧原一路)も歌はからっきしダメだった。絵の方が得意だった。
また「道具は、稽古だからといって悪いものを使っていては上達しない」というのも同感である。

竹製の本物の尺八が “たけぇ” からといって、安い練習管やエスロンの尺八で初めた人で上手になった弟子はいない。

長続きする人は、最初に数十万の尺八を買った人だ。
私は最初、1,000円の「外国人向けおみやげ品」のような、形だけが尺八で音律もメチャクチャなヤツだった。それのおかげで、10年 無駄にした。
まともな尺八で10年も稽古すれば「師範」になれたのだ。


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