一休さん、道端で女が小便をしているのを見、陰門を拝み、
「ありがたや、ありがたや」と云ったとかいう話が出回って
いるようです。
この出典は、江戸時代に書かれた『一休諸国物語』でしょうが、
原作は 全然違います。
一休が川辺を通りかかると、女が裸になって水浴びをして
いるのを見て、三拝して過ぎ去った。居合わせた人々は
「世の中の坊主は、女の裸を見たら、心地良げに、ねちかえり
ねちかえり隠れ見るのに、あの坊さんは、拝んで行って
しまったよ。仔細を尋ねん」と、追いかけて一休の袖を
つかまえ、「女の裸に三拝するという法が、仏教にあるの
ですか?」と問う。一休かく言い捨てて過ぎ行く。
女をば法(のり)の御蔵(みくら)というぞ、
げに、釈迦も達磨も出(い)ずる玉門(ぎょくもん)
村人たちは、「殊勝な坊主なり。実にまことに、高貴の方
も高名の僧もみな、女人の胎内から産まれたという心なる
べし、尤もなり」と、感心する という話なのである。
もっとも、これも江戸時代の創作話で、一休の『狂雲集』に
ある「盲目の森女(しんにょ)」を歌った詩から、着想を
得たものであろう。
一休は、森女の陰門をまさぐり「枯れた梅の老木も甦る」
とか、「そなたの陰水は、水仙の香りがする」と、愛を
赤裸々に表現しているのである。これをそのまま読めば、
“ドスケベなエロ坊主”だが、これには、裏に、もっと
もっと深い意味が隠されていることを知る人はいない。
この詩から江戸時代の戯作者は、上記のような「女陰は
法の御蔵」という道歌を導き出したのは、まだ すばらしい。
私は、『狂雲集』にわざわざ載せられた「森女」の詩は、
「森女こそ“仏”」と言っているのだと思っている。
一休は「住吉神宮」の導きで大徳寺の住持になり得た。
「森女」は「住吉神宮」の象徴なのだ。
一目上がり(ひとめあがり)落語
床の間の掛け軸に目を止めると、
笹っ葉の塩漬けのような絵が描いてあって、
上に能書きが書いてある。
これは狩野探幽の絵で雪折笹、
上のは能書きではなく
「しなはるるだけは堪(こら)へよ雪の竹」
という句を付けた芭蕉の「讚(さん)」だと教えられる。
大家さんの所に行き掛け軸を見せてもらう。
大家が見せたくれたのが根岸蓬斉の詩の掛け軸で、
「近江(きんこう)の鶯は見難し遠樹の烏は見やすし」
これは「詩(シ)」だと言われる。
今度は手習いの師匠の家へ。
師匠が出したのが一休の書で
「仏は法を売り、末世の僧は祖師を売る。
汝五尺の身体を売って、一切衆生の煩悩を安んず、
柳は緑花は紅のいろいろか、
池の面に夜な夜な月は通へども水も濁さず影も宿らず」
という長ったらしいもの。
「こいつはどうもけっこうなシだ」とほめると
「いや、これは一休の語(ゴ)だ」
「一つずつ上がっていきやがる。
三から四、五だから、今度は六だな」
と半公の家へ。
ここのは、何か大きな船に大勢乗っている絵。
「この上のは能書か」
「これは初春にはなくてはならねえものだ。
上から読んでも下から読んでも読み声が同じだ。
なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな。
めでてえ歌だ」
「こいつは六だな」
「馬鹿いえ。七福神の宝船だ」
落語はここまでですが、「じゅ(頌)」もあります。
両頭を切断してより後 尺八寸中古今に通ず
吹きい出す無住心の一曲 三千里の外知音少なし
「邦楽ジャーナル」連載 虚無僧曼荼羅 No.7 11月号
一休こそ虚無僧の元祖か
虚無僧の源は「薦(こも)を腰に付けて諸国を回遊していた薦僧(こもそう)」でした。
その薦僧と中国唐代の普化(ふけ)を結びつけたのは誰かが虚無僧の最大の謎です。
普化は『臨済録』(1120年)などに登場してくる奇僧ですが、中国では普化の後継者はおらず、
普化宗などは存在しませんでした。日本でも『臨済録』がはいってきたのは鎌倉時代の末ですから、
それ以前に普化を知っている人はいなかったはずです。その『臨済録』を読んで、普化に注目したのが
一休(1394-1481)でした。そう、あのトンチで有名な一休さんです。
一休が普化僧(こもそう)に?
江戸時代の初めに刊行された『一休関東咄(はなし)』に、「一休が関東下向の折、
普化僧(こもそう)の尺八を吹きて通らせ給う」という話があります。「普化僧」に
「こもそう」とルビがふられています。
一休は室町時代の臨済宗大徳寺派の僧ですが、既存の教団を批判し、
風狂に生きた禅僧でした。その実相を探る史料は『一休和尚年譜』と『狂雲集』です。
今日「一休さん」として親しまれている逸話のすべては、江戸時代以降に創られたものです。
一休が関東に赴いたこともありませんし、「水飴」の話、「屏風の虎」「このハシ渡るべからず」
などの話は、すべて後世の創り話です。しかしこれらの話は、一休の言行を知り尽くした上での創作なのです。
では「一休が普化僧となって」とはいったい何を意味しているのでしょう。
一休ゆかりの寺、京田辺市の酬恩庵一休寺と大徳寺芳春院には「一休愛用の尺八」というのが
遺されています。1尺1寸(33cm)ほどの短い「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる尺八です。
その真贋(しんがん)は不明ですが、一休は尺八に関する詩をいくつか作っていますので、
尺八大好き人間だったことは間違いありません。そしてまた「普化」についての詩を
3編作っています。そのひとつ「普化を賛す」と題して
徳山臨済同行をいかん
街市の瘋癲(ふうてん)群衆驚く
坐脱立亡(りゅうぼう)敗闕(はいけつ)多し、
和鳴隠隠たり宝鈴の声
そう、普化は瘋癲(ふうてん)と呼ばれていました。その「瘋癲の普化には名僧の徳山も
臨済もかなわない」と一休はいうのです。
大徳寺の住持に
一休がいかに普化を賛美し、尺八を愛したかは、『狂雲集』に記載された次の
法語からわかります。81歳で大徳寺の住持(=住職)に就任した時の法語では
「明頭来明頭打 暗頭来暗頭打
四方八面来旋風打 虚空来連架打」 (以下略)
と、普化の偈(げ)を借用しているのです。
続いて退任の法語が
「酒に淫し色に淫し亦詩に淫す (中略)
尺八を弄(ろう)して云う
一枝の尺八知音少なし」 と。
退任の挨拶が「この尺八のすばらしさを知る者はおるまい」というのですから、
これを聞いた人たちは、なんのこっちゃ、ちんぷんかんぷんだったことでしょう。
一休の晩年は応仁の乱で荒廃した時代。多くの知識人が都を離れ一休のもとに
集まって来ました。そして一休の言行から普化を知り、尺八を吹く人も増えたのでした。
その一人が朗庵、そして一路でした。この続きは次回。
風の吹くまま
『一休関東咄』(1672年刊)
一休が関東に赴いた時、山伏から問答をふっかけられる。
山伏「これ普化僧、いずれへ?」
一休「風の吹くまま」
山伏「なに、風吹かぬときはいいかに?」
一休「(尺八を)吹いていく」
他愛ない話ですが、「風が吹かなければ、自ら吹いていこう」という言葉が
私を虚無僧に駆り立てたのでした。バブルはじけてリストラ失業。尺八演奏の仕事も
こなくなって、喰うや喰わずの時、虚無僧になって自己PRに励んだのでした。
「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No.8 12月号
普化の信奉者 堺の一路
私は「吸江(きゅうこう)流尺八の一路(いちろ)」と自称していますが、
実は600年前、一休と同時代に「一路」という人物がいました。
「一路は泉州(現大阪府)堺の人。ある日一休が一路を訪ね、“万法みな道あり、
一路とはいかに”と問うと、一路は“万事休めといいながら一休(ひとやす)みとはこれいかに”と返し、
二人は大笑いして無二の親友となった」という話があります。よくできた話ですが、
これは江戸時代に書かれたもので、それ以前の一休関連の史料には出てきません。
ただし一路が実在していたことは、当時の人の日記や漢詩などから明らかです。
一路も貴人の出で、作詩に長(た)け、宮中や文人の間でも知られる存在でしたが
遁世(とんせい)し、その生きざまは一休同様に自由磊落(らいらく)だったようです。
最後は食を断って自死しています。その死にざまは、棺桶に入って昇天したという普化にも
通じるところがあります。
吸江庵の朗庵
さて、もう一人「朗庵(ろうあん)」について、黒川道祐(? - 1691)の
『雍州府志(ようしゅうふし)』に記載があります。「雍州(ようしゅう)」とは
山城国のことで、京都の名所旧跡、寺社等をくまなく探索して、由緒、伝聞を
書き留めたものです。宇治の川辺にあった「吸江庵(きゅうこうあん)」について。
「中世異僧あり朗庵と号す。普化振鈴の作略を慕い、常に尺八を好み自ら普化道者と号す。
尺八一枝の外、一物をも携えず。大徳寺一休和尚と友として善し。
一説に虚無僧の祖たるなり」と。
その「朗庵」の絵というのがありますこの絵の上には、「余(私)が東奥行脚(あんぎゃ)の砌(みぎり)、
鎌倉の建長寺に逗留した折り、祥啓(しょうけい)という画僧が、わが体のはなはだ異なるを見て
紙に描いてくれた。それで(私が)年来の所執(しょしゅう)を述べて書く」
「龍頭を切断して以来
尺八寸中古今に通ず
吹き出す無常心の一曲
三千里の外知音絶す
文明丁酉(ていゆう)の秋、宇治の旧蘆にて朗庵」と書かれています。
「文明丁酉」は文明9年(1477)。一休は文明13年(1481)に88歳で亡くなっていますので、
一休の最晩年の頃のこととなります。
さて、この「朗庵」の絵に描かれている尺八は、異様に長く、上の方に響孔がついていますので、
中国の洞簫(どうしょう)のようです。釣り竿にはリールがついており、明らかに日本人離れした
恰好ですので、中国からの渡来人ではないかと思われます。
そして「龍頭切断」の詩偈(しげ)は、一休の没後30年ほどして書かれた『體源抄(たいげんしょう)』には
「狂雲子(きょううんし)の作」と記されています。「狂雲子」とは一休のことですから、
朗庵は一休と親交があり、一休から聞いた詩偈を書いたのではないかと、私は推察しています。
「龍頭」は「両頭」に掛けたもので、『明頭来明頭打、暗頭来暗頭打』の普化の偈に通じます。
竹の両端を切って作られた尺八から吹き出す無常心の曲は、古今東西の真理に通じ、
三千里の彼方まで普く照らし絶える」というのでしょうか。
一休から普化の存在を知り、普化の境涯を真似、「普化道者」「今普化」と呼ばれたのが「朗庵」でした。
この絵は後世かなり知られていたようで、何点かの写しがありますし、狂言の『楽阿弥』にも
「かの朗庵の頌にも龍頭を切断し…」とのセリフがあります。また、この絵から創作されたのでしようか、
「蘆安(ロアン)という渡来人に、一休が “おまえさんの言葉はわからないが、その尺八を吹いて
全国どこへでも行ける”と諭した」というような話もあります。
「言葉はいらない、尺八一管の音で衆生を済度(ルビ:さいど)する」という虚無僧の悟りに通じます。
図1 「一路居士」 (『秀雅百人一首』 弘化5 緑亭川柳 葛飾北斎等画 より)
図2 「祥啓筆 朗庵像」 (『日本画大成』 昭6 東方書院 より)
風に吹かれて
朗庵と一路を“同一人物”としたのが、林羅山の『尺八記』です。
「宇治庵主 狂雲子、一路なる者あり。共に世を避け、尺八を吹く」と。
狂雲子こと一休も「宇治の庵主」にされてます。方や一路が宇治に住んだという
記録も無いのですが、『雍州府志』の記載とミックスされて、「宇治の庵」の名は
「吸江庵」。その庵主の名は「朗庵一路」と結びつけられてしまったようです。
そして、私は「吸江流一路」を勝手に名乗っております。
一路と朗庵が同一人物とするには少々難があるのですが、そこは気にしない気にしない。
「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No.11 3月号
薦僧(こもそう)は馬聖(うまひじり)?
ネットの辞書で「馬聖(うまひじり)」をひくと「虚無僧のこと」と出てきます。
虚無僧が馬聖? 馬聖って何?
明応(1492~1501)の頃作られた『七十一番職人歌合せ』に、暮露が読んだ句として
「いとうなよ かよふ心の馬聖(.ルビ=うまひじり) 人の聞くべき足の音もなし」
とあります。「暮露」のことを「馬聖」とも呼んでいたことがわかります。
前号に書きましたが「暮露」と「薦僧」は別物ですが、「暮露」と「薦僧」が
同一視されていたことから、「馬聖=暮露=薦僧=虚無僧」となってしまったようです。
では「馬聖」って何でしょう。 「馬の疫病を祓う祈祷を行ったから」という説が有力でしたが、
最近、有力な説が浮上してきました。「馬衣(うまごろも、うまぎぬ)」を着ている聖(ひじり)」
というものです。
鎌倉時代(13世紀末頃)の『天狗草紙』(三井寺巻第三段)に次のような記述があります。
「一向(ルビ=いっこう)宗と云ひて、阿弥陀如来の外の仏に帰依する人をにくみ、
袈裟をば出家の法衣なりとて、これを着せずして、馬衣をきて、念仏する時は頭をふり
肩をゆすりておどる事、野馬のごとし」と。つまり一向宗の門徒は、阿弥陀如来以外の
仏を拝む宗派を憎み、袈裟は出家の法衣だから着けず、馬衣を着た」というのです。
一向宗というと「一向一揆」。それで、親鸞の浄土真宗かと思われていますが、
一向宗は浄土真宗とは本来は別でした。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのは同じですが、
踊りが伴います。一向宗は一向俊聖に始まる踊り念仏の時宗の一派です。時宗には
一遍上人を祖とする派などいくつかありましたが、江戸幕府によって強制的に一宗に
統合されました。江戸幕府は浄土真宗も一向宗と見做したので、一般にも同じもの
との誤解が生じています。
その一向俊聖の踊り念仏から、ささら、鉢叩き、放下僧、暮露、猿引き、猿楽、田楽等
という芸能集団が生まれてきます。この芸能集団を「馬衣を着た俊聖の門徒=馬聖(うまひじり)」
となったのでした。
では馬衣とは何でしょう。「馬の皮で作った衣」という説もありますが、違うようです。
どうやら「馬の背に振り分けて掛ける衣のようなもの」で、肩から前後に垂らす袖の無い羽織
のようなもので、和紙で作られていたので「紙衣(ルビ=かみごろも)」とも。
紙で作ったとは言っても、麻の繊維で作った和紙で柿渋を塗ったものですから、
丈夫で軽く保温性もあり、旅には適したものでした。現代では紙衣(かみぎぬ)は
結構高価な織物です。
踊り念仏の時衆(宗)には、一向俊聖の一向宗の他、一遍を祖とする派などいくつかあり、
いずれも阿弥陀如来を信仰し、「南無阿弥陀仏」と唱えるものです。ところが、
時衆の徒であるはずの暮露ですが、『ぼろぼろの草紙』の虚空坊という暮露は念仏者を嫌い、
踊り狂っている輪の中に分け入って、念仏者を何人も斬り殺した。実は虚空坊は
大日如来の化身だった」というのです。阿弥陀如来以外に大日如来を信仰する踊り念仏も
あったことになります。京都で旧暦8月28日に行われる「天道大日如来盆」は
一向俊聖が興した天道念佛に起源をみるといわれます。大日如来は真言密教の本尊です。
高野山は空海によって開かれた真言密教の山ですが、実は一遍に始まる時衆(宗)や
高野聖など念仏者の発祥地でもあったのです。次号は高野山の謎に迫ります。
「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No13 5月号
普化宗の日本開祖法燈国師とは?
法燈国師覚心と萱堂聖の覚心
普化宗は「中国唐代の普化を祖とし、由良興国寺の法燈国師覚心が日本に招来した」と
云われていますが、法燈国師の正規の伝記類にはそのような記載はありません。
どうして虚無僧たちは法燈国師を日本開祖と仰いだのか。いよいよその謎に迫ります。
法燈国師覚心(1207~1298)は信濃の人で、東大寺で得度授戒し、高野山に登って
密教を学び、また禅も学びます。当時の高野山は禅も密教も念仏もまだ分化していなかったのです。
宝治3年(1249)覚心は高野山で知り合った願性の支援で宋に渡り、滞在すること6年。
帰国後、高野山に戻りますが、3年後の正嘉2年(1258)、願性の要請によって紀州由良に移り、
西方寺の開山になります。ですから覚心は、正しくは「真言宗の西方寺の開山」でした。
覚心は永仁6年(1298)、91歳で亡くなります。それから数十年経って、
孤峰覚明(こほうかくみょう)の時に西方寺は禅宗の興国寺に改められます。
その理由は、覚明が禅家として後醍醐天皇、後村上天皇の帰依を受け、
南朝との関わりを深めていったからでしょう。
「興国」とは南朝の後村上天皇の御代1340年から1346年までの元号でもありました。
近世になって、法燈国師覚心についていくつかの伝説が生まれます。
紀州名産の金山寺(きんざんじ)味噌は、覚心が中国の径山寺(きんざんじ)で製法を学び、
日本に伝えたと云われています。
さらに覚心の名は信州味噌の祖としても知られるようになります。
覚心は、律宗、曹洞宗など各宗派と関わりがありました。時宗の一遍も覚心に会って
悟りを得たという伝説があります。高野聖(こうやひじり)の溜り場「萱堂(かやどう)」の
聖(ひじり)は、代々「覚心」と名乗り、山内で念仏を行ってきました。真言密教の聖地で
鉦太鼓を叩き、念仏を唱えることは高野山としてははなはだ迷惑でしたが、高野聖たちは
「法燈国師覚心の許しを得ている」と主張して居座ってきました。
法燈国師覚心は高野聖の祖にもなっているのです。
このことが、薦僧たちにも影響を与えたのではないでしょうか。つまり、薦僧は
諸国回遊することで高野聖や暮露、放下僧などの仲間でしたから、高野聖の祖「覚心」を
薦僧も祖と仰いだのではないかというのが私の推理です。そして室町時代の末には、
覚心は「禅宗の興国寺の開山」として知られていましたから、念仏を唱えない薦僧は
時宗と離れて、禅宗の一派とみなされるようになったのではないかと思われます。
放下僧も禅宗系とみられていました。
覚心のスポンサー願性(がんしょう)
覚心の渡宋を支援した願性は、俗名を葛山(かずらやま)景倫(かげとも)といい、
源実朝(さねとも)の側近でした。実朝の命を受けて宋に渡る途中、実朝が暗殺されたため
渡宋を断念。実朝の菩提を弔うために高野山に登り、金剛三昧院で出家します。
金剛三昧院は北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺でした。願性は北条政子から
由良荘の地頭職を与えられ、金剛三昧院の別当となります。そして願性は、実朝の遺骨を
宋に分骨するために覚心を宋に送り、また由良荘に実朝供養の寺を建てます。
それが西方寺です。西方の国、宋に憧れていた実朝の思いを込めた寺名でした。
やがて北条政子も亡くなると、西方寺は北条政子の菩提も弔う寺となります。
それから200年後、この葛山氏の子孫が北条早雲と結ばれ、生まれたのが「幻庵」でした。
北条氏の沼津の城は興国寺城ですし、北条幻庵こそ近世の虚無僧の成立に最も大きな力と
なった人物と私は推察しています。この続きは次号で。
風に吹かれて
もう50年も前のことです。虚無僧に憧れて、19歳の時虚無僧の旅に出ました。
親から預かった学費9万円を持ち逃げし、大阪で天蓋と袈裟、着物等の虚無僧用具一式を
買い込んで。向かった先が「虚無僧の大本山」であるはずの由良興国寺。
車も無い時代です。歩いて行くには大変でした。ようやくの思いでたどり着いた興国寺でしたが、
「うちは虚無僧とは関係ありません」と、ピシャリ門前払い。呆然自失する私。
その時のショックをバネにして、今日までの「虚無僧探しの旅」が始まりました。
虚無僧曼荼羅 No.14 6月号に寄稿
『虚鐸伝記国字解』の謎
普化宗の由来
普化宗の由来については、江戸時代の末、寛政7年(1795)に京都で出版された
『虚鐸伝記国字解(きょたくでんきこくじかい)』の他、一月寺や京都明暗寺等の
縁起があります。まず『虚鐸伝記国字解』によると。
普化禅師は唐代、鎮州の人。鐸(たく)を振って「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」と
唱えながら市内を巡っていた。ある日、張伯という者が教えを請うたが断られたので、
普化の振る鐸の音を笛で模して吹いた。それでこの笛のことを”虚鐸”という。
その後、張伯より16代の孫の張参が護国寺で学んでいたとき、日本から学心という僧が
やってきた。学心は張参の吹く虚鐸の音に感じ入り、虚鐸を学び帰国し、弟子の寄竹に伝授した。
というものです。ここでは「法燈国師覚心」は「学心」になっています。張伯は普化に
教えを請うたが断られたのですから、普化宗の継承者ではありえませんね。
普化は尺八を吹かなかったので、「普化尺八=虚鐸」の祖はむしろ「張伯」と
いうことになります。全くおかしな内容なのです。
普化の行状を記した書『臨済録』他では、普化が振ったのは「鈴」となっています。
「鐸」とするのは『虚鐸伝記国字解』のみです。また『虚鐸伝記国字解』以前に
「虚鐸」という名称はどこにも出てきません。全くの創り話なのです。
法燈国師と普化宗は関係なし
『虚鐸伝記国字解』では、「学心は寄竹の他に国佐、理正、法普、宗恕という
四人の(日本人の)居士にも虚鐸を伝えた」と書かれています。
ところが「下総一月寺」や「京都明暗寺」の縁起では、「法燈国師覚心が
帰朝の際、国佐・理正・宝伏、宋恕という(宋人の)四居士が同船してやって来た」と
なっています。つまり法燈国師覚心自身が尺八を学んで帰朝したのではなく、
「普化のような変わり者の四人の居士が同船して日本にやってきた」というのです。
これには『虚鐸伝記国字解』の作者の意図が隠されているようです。
江戸時代を通じて虚無僧の本寺として幕府に認められていたのは、
下総小金(現千葉県松戸市)の一月寺と、青梅の鈴法寺でした。これに対抗して、
京都の明暗寺が強引に興国寺と本寺・末寺の契約を結び、興国寺をバックに
1760年代に「虚無僧の総本山は明暗寺である」と幕府に訴え出ていたのでした。
それで、『虚鐸伝記国字解』は京都明暗寺の主張を後押しするために創られたものと
考えられるのです。「法燈国師学(覚)心自身が張参から普化の禅と虚鐸を学び、
帰国して寄竹の他四人の弟子に伝えた。奇竹は京都明暗寺を開き、四居士の一人
宝伏は同じく法燈門下の金先とともに関東に下り、下総一月寺を起こした」として、
明暗寺も一月寺も法燈国師の門下であると作文したのではないか。
これに対して、一月寺では法燈国師と普化宗との関連をことさらに無視したものと
思われます。そもそも法燈国師覚心が普化宗を学んだとか尺八を吹いたという記録は
正史にはないので、一般に流布されている「法燈国師=普化宗日本開祖説」は
正に虚妄でした。「薦僧(こもそう)」を「虚妄僧(こもそう)と当て字した史料もあります。
『虚鐸伝記国字解』にはさらに続きがあり、虚鐸は寄竹から塵哉(じんさい)、儀伯、
臨明、虚風へと伝えられ、虚風の弟子が虚無(きょむ)。虚無は実は楠正成の孫「楠正勝」で、
天蓋で顔を隠し、世を忍ぶ姿となって諸国回遊した。世人「何者ぞ」と問うと
「虚無(きょむ)」と答えたので、この門徒が「虚無僧(きょむそう」と呼ばれるように
なったと、虚無僧の由来を述べています。
(『虚鐸伝記国字解』では「虚無僧」を「キョムソウ」とルビがふってあります)。
そして、虚無から儀道、自東、可笑、空来、自空、恵中、一黙、普明、知来へと
継承され、知来の弟子が「頓翁」で、この「頓翁」が『虚鐸伝記』を書き残した
とあります。頓翁は「寛政年中の人」とありますので、江戸時代初期の人ということに
なります。この頓翁が書き残した『虚鐸伝記』が、公家の阿野中納言家に伝えられ、
山本守秀が注釈を加えて世に出したというのです。山本守秀は阿野氏の一族です。
山本守秀は「『虚鐸伝記』には楠正勝のことが詳しく書かれていないのは不満である」として、
別の史料に基づいた「楠正勝」の伝承を『虚鐸伝記国字解』の巻の上にもってきており、
学心のことは「巻の中」に、そして「巻の下」には、「普化禅師」と「法燈国師覚心」に
ついて、尺八関連以外の、むしろ正しい伝承を掲載しているのです。
「邦楽ジャーナル」寄稿 虚無僧曼荼羅 No.15 7月号
『虚鐸伝記国字解』の謎 2
前号までの内容を整理してみますと
① 薦(ルビ:こも)を背負って尺八を吹く薦僧(こもそう)は、
室町時代の中頃から文献に現れる。それ以前鎌倉時代には存在が確認されない。
② 薦僧は暮露(ぼろ)や鉢叩き、放下僧(ほうかそう)と同様に馬聖
(うまひじり)=時衆の仲間とみられていた。
③ 高野聖の苅萱堂(かるかやどう)の主は代々覚心であり、
薦僧も覚心を祖とするようになったのではないか。
④ 普化の行状を記した『臨済録』が日本にはいってきたのは鎌倉時代の末であり、
普化の名が知られるようになったのは、一休の時代1400年代になってから。
⑤ 普化に弟子は無く、普化は尺八を吹かなかったのだから、尺八を吹くことが
座禅の代わりという普化宗は仏教史上存在しない。
⑥ 京都明暗寺や下総一月寺の縁起では、「法燈国師覚心が宋から帰国する際に、
四人の居士が同船してきた」となっている。
「法燈国師覚心自身が普化宗と虚鐸(尺八)を学んで帰国した」とするのは
『虚鐸伝記国字解』のみ。
というわけで、「鎌倉時代に法燈国師が普化宗を日本に伝えた」などという話は
全くありえないのです。では『虚鐸伝記国字解』は何の目的で、普化と法燈国師との
話を創作したのでしょうか。
『虚鐸伝記国字解』の意図
実は『虚鐸伝記国字解』は「普化と法燈国師」のことよりも、楠正勝に多くを割いています。
「虚無僧宗の始祖は楠正成の孫正勝である」というのも創作ですが、「しかれば、
この宗に入る輩(ともがら)は、志を篤くし(中略)、ただ逍遥として風流を以て是とし、
威勝(いかつ)い振る舞いをなさざれば身を恥ずかしめず」と結んでいます。
つまり江戸時代の後半、虚無僧が堕落して、世間の嫌われ者になっていることを戒めるために、
「楠正勝の志にならい、世を忍び、行いを正しくせよ」と説いているのです。それが
『虚鐸伝記国字解』を世に出した真意でした。その背後には、関東の一月寺、鈴法寺と
対抗する京都明暗寺の意向があったものと思われます。
ちなみに『虚鐸伝記国字解』でも「普化宗」という語は無く、「虚無僧宗」となっています。
阿野・葛山・北条の不思議な縁
では『虚鐸伝記国字解』は、なぜ虚無僧寺ではなく、公家の阿野家に伝えられ、
山本守秀によって刊行されたのでしょうか。
阿野氏の祖は、牛若丸(源義経)の兄今若丸です。今若丸は、異母兄の頼朝が天下をとると、
駿河国駿東郡阿野荘(現静岡県沼津市西部)を領し、阿野氏の祖となります。
その子孫に後醍醐天皇の後宮「阿野廉子(ルビ:れんし)」がいます。南朝の後村上天皇の
生母です。後村上天皇によって西方寺は興国寺と改められました。
西方寺は、葛山景倫(ルビ:かげみち)が源実朝(ルビ:さねとも)と北条政子の菩提を弔うために
建てた寺でした。その北条氏を滅ぼした後醍醐天皇とその子後村上天皇が、西方寺を
手厚く遇したのは、政子の怨霊を封じるためでしょうか。
その阿野氏は南北朝合一後、北朝の公家の座に返り咲き、江戸時代、明治、昭和と続きます。
そして富士山麓の阿野荘の隣人は、西方寺を建てた葛山氏でした。
北条早雲が最初に沼津に築いた城は興国寺城です。
早雲と葛山氏の娘との間に生まれた北条幻庵は尺八の名手でした。北条家の家臣の多くが
尺八をたしなんでいましたから、北条家滅亡後、何人かの遺臣が薦僧になったと考えられます。
阿野氏と葛山氏、北条氏はそれぞれが興国寺となんらかの関わりを持っているのです。
今はネットで何でも調べられる時代になりました。阿野氏の系図を検索してびっくり。
山本氏は阿野氏の分家であること。阿野氏の最後の当主阿野佐喜子様は私の東京の家の近くに
住んでおられたこと。そして音楽家近衛秀麿の次男と結婚され、今その二人の姉妹が、
チェロリストとヴァイオリニストとして世界的に活躍されていることが判り、
早速フェイスブックでメールを交換しました。
「邦楽ジャーナル」に寄稿
虚無僧曼荼羅 17 9月号
青梅鈴法寺の創建について
仁君開村記
虚無僧本寺の一つ青梅鈴法寺の成立については、吉野織部之助の
『仁君開村記』で明らかにされています。吉野織部之助は天正18年
(1590)小田原北条氏滅亡の際、最後まで抵抗した忍城(現埼玉県行田市)
の遺臣でした。(忍城は映画『のぼうの城』)で有名になりました)。
その『仁君開村記』によると。
吉野織部之助は、徳川の世となって、「武蔵野に郷村を開くべし」との
将軍のご意向により、新村開設の許可を得た。そしてまずは井戸が必要と、
井戸掘り職人を求めて舅の住む柏原(現埼玉県狭山市)に行った。
その折(慶長18年8月1日)虚無僧に出会い、言葉をかけると、
忍城で討ち死にした同輩秋山惣右衛門の子息太郎と判った。
太郎は出家して月山養風と名乗り、葦草村(現川越市)の鈴法寺の
住職をしているとのこと。月山が「そちらに行きたい」というので、
「お安い御用」と引き受けた。翌9月3日、月山がやって来たので、
土地約1000坪を寄進し、10月には3間四方(9坪)のお堂を
建てて住まわせた。
以上が『仁君開村記』に記された内容です。「仁君」とは二代将軍徳川秀忠を
さしています。吉野織部之助は将軍を「仁君」と称え、将軍の意を受けて開村し、
名主となったことに感謝しているのです。例の『慶長の掟』が、前書きに
「家康公関東入国の砌(みぎり)」としながら、末尾には「慶長19年正月」と
なっている謎ですが・・・。
「家康公の関東入国」は天正18年(1590)。小田原北条氏が滅び、
徳川幕府の下に江戸の開府と武蔵野の新田開拓が進められました。
そして24年後の慶長19年(1614)正月は青梅に鈴法寺が建てられて
3カ月後です。この時、寺として公認されたのでしょうか。
鈴法寺の成立経緯を暗に示しているようです。
鈴法寺の『過去帖』によれば、月山養風は第20世。開山は
「活総了」で鎌倉時代の1266年歿となっています。しかしこの
『過去帖』は江戸時代末に書かれたもので、普化宗が鎌倉時代に
日本に伝えられたとする伝承に合わせて、歴代住職を創作したもの
と思われます。
そもそも虚無僧は浪人の仮の姿で、門付け以外に収入は無いのですから、
寺などは建てられず、廃寺か無人のお堂に勝手に住みつくしかなかった
はずです。青梅に移る以前、葦草にあったという鈴法寺は果たして
寺としての要件を満たしていたのかは疑問です。
幸いにも月山は吉野氏に巡りあって寺を建ててもらった。しかし
寺といっても、わずか3間四方(9坪)のお堂でした。
吉野織部之助は、村ができれば寺も必要と、敷地3000坪に間口9間の
東禅寺を建てています。鈴法寺の三倍の規模です。
その後江戸時代の半ばには虚無僧の最盛期となり、鈴法寺は、
江戸に番所(出張所)を出し、下総の一月寺とともに幕府との窓口役である
虚無僧本寺になります。しかしやがて虚無僧の横暴、堕落が問題となり、
弘化4年(1847)幕府は御触書を出して虚無僧の粛清を図ります。
これによって虚無僧の数も減り、鈴法寺も幕末には無住となりました。
「邦楽ジャーナル」H29年8月号 寄稿記事
虚無僧曼荼羅 16
小田原北条氏と虚無僧
前号で「北条早雲(?-1519)の最初の城は興国寺城」と
書きましたが、この話も、実は疑いがあります。
今川義元の時代「天文18年(1549)興国寺の跡に城を建てた」
という記録があるからです。早雲の死後30年後のことです。
それなのになぜ「早雲の最初の城が興国寺城」とされたのかが
問題となります。
北条早雲というのも正しくはありません。元の名は伊勢新九郎で、
北条を名乗るのは二代目の氏綱からです。その小田原北条氏は
「早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直」と五代続いて、天正18年
(1590)豊臣秀吉に攻められ滅亡します。
早雲と葛山氏の娘との間に生まれたのが北条幻庵((げんあん)。
葛山氏の祖景倫(かげとも)は、源実朝と北条政子の菩提を弔うために
紀州由良に西方寺(後の興国寺)を建て、法燈国師覚心を開山に迎えた人です。
幻庵は子供の頃は京都で育てられ、連歌、茶の湯等高い教養を身につけ、
尺八の製作も手掛けます。幻庵が作った尺八は「幻庵切」として都で評判となり、
幻庵の影響で北条家の家臣の多くは尺八を吹いたといいます。
北条家の家訓『早雲寺殿二十一個条』には「囲碁、将棋、尺八、笛の類は
知らずとも恥にはならない。ただ空しく時を過ごすよりは(たしなむのも良い)」
というようなことが書かれています。
『北条五代記』に興味深い記録があります。「(山上)宗仁という茶人が
やってきて、一味違った茶の湯と云うことで、北条一門や家老衆が巡礼や行者、
虚無僧の恰好で、毎日茶会を開いていた」というのです。
また幻庵は乱波(らっぱ)(忍者)の風魔を抱えており、
風魔は短い尺八を通信手段として使っていたという伝説もあります。
伊豆の修善寺の南、大平(おおだいら)は幻庵の屋敷があったところで、
幻庵の菩提寺「金龍院」があります。その近くに旭滝(あさひだる)があり、
滝の傍らには瀧源寺(ろうげんじ)という虚無僧寺がありました。
小田原落城後、北条家の遺臣が虚無僧となって住みついたのでしょう。
虚無僧本曲の「滝落ち」は、瀧源寺の虚無僧が吹いた曲と伝えられています。
北条氏滅亡後
北条家最後の当主は氏直。氏直の室は徳川家康の娘でしたから、
小田原落城後、命を助けられ高野山に幽閉されます。翌年には
赦免されるのですが、まもなく30歳の若さで病死してしまいます。
紀州の興国寺にも、興味深い記録があります。興国寺は天正13年
(1585)秀吉に攻められて破壊されたが、慶長6年(1601)浅野幸長が
入封してきて、再建を図った時、寺墟に行者や虚無僧が棲んでいて
追い払われた」というのです。
これは推測ですが、この虚無僧は北条氏直に付き従って高野山に来ていた
遺臣ではなかったか。そして、興国寺を追われた虚無僧が宇治を経由して
京都に移り、明暗寺の祖となったのではないか。明暗寺の縁起に
「宋から渡来した四人の居士が興国寺の普化谷に住み、風呂を焚いていた」とか、
「寄竹が宇治に移り住んだ」とあるのは、この時の記憶ではなかったかと
思われるのです。以下次号
風の吹くまま
20代の頃、虚無僧の恰好をして箱根を回った時のことです。
歩いていると早雲寺があり、北条五代の墓の前で尺八を吹きました。
その時は、北条氏が虚無僧と関係があるなどとは全く知らず、
何か引き寄せられるようにたどり着いた所が北条五代の墓だったのです。
こうした不思議な体験を数多くしてきました。