「一休」には「南朝」の影が色濃くつきまとう。
東映アニメの「とんちんかんちん一休さん」でも
母は南朝方の出で、南朝の残党が一休をさらって
南朝の天皇に担ぎだそうというシーンが出てくる。
一休の死後、弟子たちによって編纂された『一休和尚年譜』の
冒頭に、「母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇
の寵愛を受けていたが、懐剣を懐に偲ばせ、帝の命を狙っている
と讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を 生んだ」と
ある。
一休は、父は北朝の後小松天皇、母は南朝の楠の血筋で、
北と南の板ばさみだったのだ。6歳で「安国寺」に預けられるが、
「安国寺」は、足利尊氏が滅ぼした後醍醐天皇をはじめ、
楠正成、新田義貞ら南朝の忠臣の霊を祀るために建てられた
寺だった。そこで、曽祖父の楠正成の菩提を弔わせるために、
いれられたのだが、もうひとつ理由がある。
それは、足利3代将軍義満は、自分の子供「義嗣」を
次期天皇にしようと企み、一休が邪魔だったのだ。
一休は後醍醐帝の後、101代天皇になれる人だった。
北と南の双方の板挟みになり、また足利義満の監視下に
置かれるという運命に抗ってか、一休は安国寺を
飛び出す。そして生涯を一蓑一笠の托鉢僧で過ごそうと
する。
だが、一休は大阪の「住吉大社」にしばしば滞在している。
ここは、後醍醐天皇の子「村上天皇」の安在所だった。
そして、南朝に心を置く者たちがよく集まってきていた。
一休は77歳の時、ここで盲目の女性「森女」と出会い、
薪村に連れて帰る。
また、神仏混淆の時代だから、神家の津守氏からは
大徳寺の住持も出ているのだ。一介の托鉢僧として
生きてきた一休が、81歳で「大徳寺」の住持に
なれたのは、住吉大社の後押しがあったからという。
3/16 中日新聞『思うままに』で宗教哲学者梅原猛氏が
書いている。最近『観阿弥と正成』という本を出したそうな。
氏は、「観阿弥・世阿弥は楠木氏と血縁関係にある」と明言
している。
伊賀の旧家、上嶋家に伝わる「上嶋家文書」の中の「観世
福田系図」に、「観阿弥の母は橘正遠の娘」と記されている。
楠木氏は橘姓なので、正遠は正成の父ではないかと考えられて
いる。上嶋文書の真偽については、東大教授の平泉澄氏や、
京大教授の林屋辰三郎氏も、正当性を証明しているとのこと。
つまり系図は
楠木正遠----正成------正勝
| |
| |--正儀-----正澄-----女--- 一休
|
|
女--------観阿弥-----世阿弥
そして一休は、正勝の弟正儀の孫娘と後小松天皇との間に
生まれた子。一休と世阿弥はともに、南朝方の楠木の血が
流れていたのだ。
瀬戸内寂聴がいってました。
「何歳まで生きられるか、人の命はそれぞれに定まっている。
これを「定命(じょうみょう)といいます」と。
なるほど、80歳と定まっている人は、何度自殺しても死ねない。
若くして病気や事故で亡くなった人、自殺して死んでしまった人。
あるいは殺されて死んだ人も。みな、そのような運命だったのだ。
それぞれが「定命」を全うしたと、そう捉えれば、あきらめがつくか。
一休も25才の時、将来を悲観して、瀬田川に身を投げたが
死ねなかった。88歳まで生きたことで、今日まで名声を残した。
統一教会の文鮮明も、何度も投獄され、すさまじい拷問を受け、
常人ならばとうに死んでいただろうに、奇跡的に生かされた。
統一教会を立ち上げる使命を神から与えられたと。
さて、私は何歳まで生きられるのだろう。今生かされている不思議を
感じています。
名古屋で、「きんさん」と云えば「錦(にしき)三丁目」
バブルの頃は スナックやバーが建ち並び、タクシーも
通れない歓楽街でしたが、今は、居酒屋やカラオケ店に
代わり、若者を取り込んでいます。
名古屋城は、天守閣の「金の鯱(しゃちほこ)」に
因んで、別名を「金鯱城(きんこじょう)」といい、
「金鯱(きんしゃち、きんこ)」「鯱城(こじょう)」と
いう名称をよく見かけます。
「金」が好きな名古屋ですから、100歳の双子の姉妹
「きんさん、ぎんさん」は、名古屋にふさわしい、
名古屋を代表する名前でした。
二人の旧姓は「矢野」。「有松絞り」の家に生まれました。
「きんさん」は「成田 きん」(1892年8月1日 - 2000年1月23日)
107歳で、「ぎんさん」は「蟹江 ぎん」(1892年8月1日
- 2001年2月28日)108歳で 大往生されました。
名古屋が生んだ「国民的アイドル」です。
さだまさしが言ってました。 「下積み60年?、いやまだまだあきらめるのは早い。 きんさん、ぎんさんを見なさい。99歳まで無名の人。 100歳で、誰もが知っている国民的アイドルになったのですから」と。 がんばろう