朝日新聞土曜日版「be」に「文豪書簡」という島田雅彦さんの連載コラムがある。
今回は、むなしき夏 下着で出歩く女性たちへというコラムが、掲載されていた。
2、3年前からだと思うのだが、若い女性のキャミソール姿が目立つようになってきた。
それにあわせて、ブラジャーの肩紐が取り替えられるようなデザインのものが、増えている。
「キャミソールって、下着だったんじゃなかった?」というのが、私の印象。
それだけではない。
「見せ下着」という、ファッションも言われだして久しい。
それって、本当にファッションなんだろうか?
我が家から歩いて20分くらいのところに、女子大を含め大学が3校ほどある。
彼女達の登下校時間と重なると、本当にキャミソール姿の女子学生が多かった。
特に今年は、テカテカと光沢のある明るい色の化繊トリコットのような生地に、黒い安っぽいレース使いのキャミソールを着ている女子学生が、目立っていたような気がする。
「セクシー」という感じがまったくしないどころか、「逞しいくらい、だらしない」という印象すら受ける。
なぜなら「下着姿で、堂々と街中を歩く」という感じだからだ。
ファッションそのものは、自由であって良いと思う。
昨年や今年のような暑い夏であれば、それなりに涼しいスタイルで過ごすコトには、反対もしない。
ファッション誌に掲載されたものを、お手本とすることも構わない。
ただ、TPOという基本は、守ってもらいたいのだ。
そして、「自分らしい、コーディネートセンス」を磨いて欲しい。
地面を掃除するような、丈の合わないジーンズは足を長く見せるどころか、その反対の効果しか生まない。
欧米人であれば、カッコ良く見えるかも知れないローライズパンツは、ウェスト・ラインをぼやかし、胴長に見せるだけ。
そんな、流行に惑わされるのではない、客観的で冷静な目をもって欲しい。
日本のファッションデザイン力は、世界でも高く評価されてきている。
「日本風」というのではない、グローバルな評価である。
しかし、肝心の私たち生活者のファッションは、どうなのだろうか?
TPO然り、コーディネート然り・・・。
「姿見の前で、服装チェックをする」というのは、以前当たり前のように言われてきた。
もう一度、姿見の前で自分の姿をチェックする必要がありそうだ。
今回は、むなしき夏 下着で出歩く女性たちへというコラムが、掲載されていた。
2、3年前からだと思うのだが、若い女性のキャミソール姿が目立つようになってきた。
それにあわせて、ブラジャーの肩紐が取り替えられるようなデザインのものが、増えている。
「キャミソールって、下着だったんじゃなかった?」というのが、私の印象。
それだけではない。
「見せ下着」という、ファッションも言われだして久しい。
それって、本当にファッションなんだろうか?
我が家から歩いて20分くらいのところに、女子大を含め大学が3校ほどある。
彼女達の登下校時間と重なると、本当にキャミソール姿の女子学生が多かった。
特に今年は、テカテカと光沢のある明るい色の化繊トリコットのような生地に、黒い安っぽいレース使いのキャミソールを着ている女子学生が、目立っていたような気がする。
「セクシー」という感じがまったくしないどころか、「逞しいくらい、だらしない」という印象すら受ける。
なぜなら「下着姿で、堂々と街中を歩く」という感じだからだ。
ファッションそのものは、自由であって良いと思う。
昨年や今年のような暑い夏であれば、それなりに涼しいスタイルで過ごすコトには、反対もしない。
ファッション誌に掲載されたものを、お手本とすることも構わない。
ただ、TPOという基本は、守ってもらいたいのだ。
そして、「自分らしい、コーディネートセンス」を磨いて欲しい。
地面を掃除するような、丈の合わないジーンズは足を長く見せるどころか、その反対の効果しか生まない。
欧米人であれば、カッコ良く見えるかも知れないローライズパンツは、ウェスト・ラインをぼやかし、胴長に見せるだけ。
そんな、流行に惑わされるのではない、客観的で冷静な目をもって欲しい。
日本のファッションデザイン力は、世界でも高く評価されてきている。
「日本風」というのではない、グローバルな評価である。
しかし、肝心の私たち生活者のファッションは、どうなのだろうか?
TPO然り、コーディネート然り・・・。
「姿見の前で、服装チェックをする」というのは、以前当たり前のように言われてきた。
もう一度、姿見の前で自分の姿をチェックする必要がありそうだ。