週末のパリを襲った、テロ事件。
数多くの市民が亡くなられた。
一方、シリアでは毎日のように空爆が行われ、数多くの市民が亡くなられている。
亡くなられた方の「数字」だけで見れば、シリアのほうが多いのではないだろうか?
宗教は違えど、「人の命」という点では変わることのない価値観があるはずだと思う。
しかし、その「人の命」という価値観が、「利己的な価値観」によって、失われている。
とても残念なコトだと思う。
「利己的な価値観」の一つは、「正義」ということかもしれない。
自分たちの持っている「正義感」が、他者の持っている様々な「価値観」を認めていない、という気がする。
そして認められないコトが、相手の存在を否定したり、攻撃的な行動になったりするのでは?
それが「当事者間」の間だけのコトであれば、多くの関係のない人たちが巻き込まれることはない。
関係のない多くの人たちが、巻き込まれるコトで「憎しみ」が起きてくる。
「IS(もしくは「ダーイッシュ」)」達の始まりは、「イラク戦争」であった、という説もある。
この「イラク戦争」では、「アルカイダ」という組織も生み出だしている。
やはり「戦争」という、それまで平穏に暮らしていた市民を死に巻き込むような出来事が、「憎しみ」を生むのだとしたら、「戦争」そのものを起こさせない努力ということを、し続ける必要があるだろう。
そのためには、何が必要なのだろう?
「IS(もしくは「ダーイッシュ」)」という、組織はすでに暴走をしており、同じ思想的な?「アルカイダ」とも袂を分かち、同じ「イスラム過激派」の中でも、特異な存在となりつつあるようだ。
問題なのは、その特異的存在となってきている「IS(もしくは「ダーイッシュ」)」に対して、同調する若者たちが数多くいて、その若者たちが次々と「聖戦」という名の基に、多くの市民を巻き込むテロを繰り返したり、自分たちとは違う宗教の信者を殺害するコトに抵抗感がない、ということだろう。
彼らの持っている「憎しみ」とは、いったい何なのだろう?
「IS(もしくは「ダーイッシュ」)」達は「自分たちに従うことができない人たちは、かわいそうな人たちで、そのかわいそうな人たちの救済が、聖戦である」と、言っているようだが、そもそも人の価値観などは様々で、一方の理由が、他方に理解されるということは、とても難しいコトでもある。
第二次世界大戦前に創られたハリウッド映画「イントレランス」に描かれているように、いまだに人が克服できない問題なのかもしれない。
ただ、その問題を解決するための努力をし続けなくてはならないし、その努力とは何か?ということを突き付けているのかもしれない。
「イントレランス」:淀川名画撰集