時々拝読させていただく、日経新聞のコラム・COMEMO。
その中でも「なるほど!」と、考えさせられるのが大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムだ。
COMEMO:とんちんかんな日本、つながりが悪い日本
今回のコラムを読んでいて、商品価格と商品価値の違いとは?と、考えてしまった。
京都の西陣織りや友禅など、人の手をかけてつくられた商品はとても値段が高い。
「値段が高い」というと、「銭金の話は下世話だ」と感じられる方もいらっしゃると思うのだが、事実高額な商品が多い。
高額な商品と言ったとき、思い浮かぶ「商品の値段」を決めるのは「人件費」だと思うだろう。
もちろん、素材そのものも逸品と言われるような素材を使っていることは、想像できる。
ただ、その場合想像できる範囲というのは、その「商品」をつくっている人や材料と言った部分にとどまってしまうことが多いのでは、無いだろうか?
確かに、そのような材料や人の手間なども重要な「価格要素」であることには違い無いのだが、その「商品」をつくるための道具や道具を作る人、道具をつくるための材料、というところまで想像することは難しいと思う。
しかし「伝統工芸品」と呼ばれるものだけではなく、様々な商品には目の前にある商品は、そのものをつくる人や材料、道具、道具をつくる人、道具の素材などが積み重なりあって出来上がっている。
そう考えると、自分が想像するよりも多くの人が関わり、関わる人達が使う道具があり、その道具の為の材料の価値が、価格となって反映されている、ということになる。
ところが、工業化によりそれらの過程の多くは、人の手から機械へと移り、道具も大量生産された均一の物へと変わっていった。
その結果、「商品の価値」ではなく「商品価格」で、商品の良し悪しを決める傾向が生まれてきたのではないだろうか?
もちろんそれが、戦後日本だけではなく世界の経済を発展させる原動力になったのは、間違いないだろう。
「大量生産・大量消費が良い」によって、日本は高度成長を成し遂げたのだ。
それが行き詰まり、バブル崩壊後経済的立ち直りができないまま30年近く経ってしまった。
今だに「高度成長期」のような、経済成長を目指すようなことを言われる方(特に政治家に多いような気がするのだが)もいるが、多くの人たちは「高度成長期」のような経済成長は無理だと、感じているはずだ。
むしろ「高度経済成長」ではない、経済の在り方をここ30年探し求めてきたともいえるのでは?
伝統工芸のような、素材や素材をつくるための道具を厳選し、手間と時間をかけて人がつくる商品が、市場に溢れるという時代ではないが、つくられる商品の価格ではなく価値を生み出すものは何か?という、想像からビジネスを考えることが必要かもしれない・・・という気がする。