先月、「余命告知」をされなかったため、残された時間を充実させることができなかった、として遺族が医師側を提訴する、ということがあった。
毎日新聞:損賠賠償 余命伝え酢医師を提訴「残りの人生違っていた」
この記事を読んだとき、ある種の違和感を感じた。
「がん」という病気と付き合うようになってから、幾人かのがん患者の友人を送った。
がん患者の友人たちの多くは、「余命告知」を受け、告げられた「余命宣告」よりも長く充実した時間を過ごし、人生を生き切ったという印象を持っている。もちろん、そんなに単純なわけではないし、亡くなられた方の中には無念な思いを残されただろう、と感じる方もいらっしゃった。
それでも「余命告知」というのは、患者自身の受け止め方の違いで随分変わるものだ、と亡くなったがん患者の友人たちは教えてくれたように思っている。
ただ、余命告知を受けたからと言って、残された時間を充実したものにすることができる患者さんそのものは、決して多くはないのでは?という、気がしている。
何故なら、上述したとおり「余命告知」に対して、告知された患者がどう受け止めるのか?という部分で、大きく変わってくるからだ。
「死の科学者」と言われたキューブラー・ロスの名著「死ぬ瞬間」は、まさにがん患者が「がん」という病気に対して、どう感じ・どう受け止め・どう生きたのか?ということをまとめた内容だが、実際には、5つのステップを順当に過ごすのではなく、人の心や意思はとても複雑で常に揺れ動くものだ、と余命告知よりも長く生きたがん患者であった友人の姿を見て感じている。
だからこそ、良心的な医療者は「余命告知を簡単にできないのでは?という、気がしている。
ヨミドクター:余命告知に医師ら苦慮…診断困難、「急変することも」
おそらくご遺族の方からすると、余命告知がされていれば旅行などの「思い出ができたかもしれない」など、様々な思いが交錯しているのだと思う。
しかし、「余命を告知」されても、それを受け止めるのは患者自身なのだ。
その患者が告知をどう感じ・受け止め・理解し・行動したのか?ということは、ご遺族であってもわからないだろう。
それだけではない。
今の医療の問題の一つに「医療者と患者のコミュニケーション」がある。
「がん告知」や「余命告知」などでは、患者やその家族では理解できない専門用語が使われる。
患者やその家族にとっては「外国語を聞いている」ような状況で、短い時間で十分な理解ができないまま判断を迫られる、という場合もある。
「余命告知」というは、「余命、後半年」というほど分かりやすいものではないし、おそらく今の医療従事者はそのような「余命告知」はされていないと思う。
「余命告知」というのは、医療者であっても難しい判断を要することだろうし、その「告知」通りではない、という事実も私たちは知る必要があるように思うのだ。