日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

実家で考えたこと-地方のビジネス-

2007-08-20 06:56:33 | アラカルト
お盆休みも終わり、今日から仕事!と言う方も少なくないだろう。
私も、実家に帰りお盆行事などに明け暮れたのだが、いくつか気になるコトがあった。
それが、地方での(農業)ビジネスだ。

今の農業ビジネスと言うと、「会社型農業」などが注目されている。
農業従事者の高齢化とともに農業を辞めてしまう点に注目し、休耕田などを中心に会社型の大規模農業を経営すると言う形態だ。
このような「会社型農業」は、若手農業従事者が中心となっているのだが、そのような若手農業家が中心になって農業をしていける地域と言うのは、まだまだ少ない。
実際、私の実家がある鳥取県などは過疎地であり、農業従事者は高齢者が殆どだ。

そんな状況の中、「これもアリかな?」と言う姿を、実家近くの農作物の直売所で見た。
そのものズバリ「ファーマーズマーケット」だ。
これまでの農家の直売所というのは、田舎の道脇にトタンで囲まれた「一盛り100円・無人販売所」か、「道の駅」に併設されている直売所などが一般的だろう。
ところが今回私が(父と買い物に)行った「ファーマーズマーケット」は、農協直営の大型スーパー並の売り場の直売所だったのだ。
立地も大手スーパーと道を隔てた、「隣接地」と言っても良いほどの場所。
スーパーの集客を見込んでいるわけではないようだが、それでもある程度は「ファーマーズマーケット」にも人は流れているのではないだろうか?

この「ファーマーズマーケット」の特徴は、生産者が直接商品を店頭に並べると言うことだ。
自分の売り場があり、そこに自分で育てた農作物を自分で並べる、と言う方法をとることで、生産者自ら消費者と出会うようになっているのだ。
生産者と言っても、腰の曲がったお婆さんやお爺さんばかり。
そのお爺さん・お婆さんが、お客さんの姿を見ながら自分が育てた農作物の売れ行きを心配そうに見ているのだ。見ているだけではなく「こうやって食べると美味しいよ」とアドバイスをするお婆さんもいる。
お客さんの姿を見ることで、生活者が求めているモノを知る努力だけではなく、いかにアピールしようか?と一生懸命に考える姿がそこにあった。
ビジネスの基本と言ってしまえばそれまでだが、農業と言う分野では生産者が購入者と出会うことがこれまでになかったことを考えれば、大きな変化のような気がした。

今回経験したもう一つの「地方ビジネス」は、地元の観光資産と名物を組み合わせた「お土産複合施設」だ。
元々この地域は、遺跡が発掘された頃から遺跡を観光資源の中心として、町営施設を作ってきた。それを発展させたモノが、今回の複合施設なのだ。
キーとなるのは「温泉」と「美味しい地元の農作物で作った料理」、「体験施設」なのだが、小さな施設の割には楽しめる工夫がされていた。と言うよりも、町のスケールから見れば丁度良い大きさの施設だ。

田舎だからこそできるビジネスと言うものがあるとすれば、都市部にモノを出すのではなく、いかに田舎に人を呼ぶのか?と言うことなのではないだろうか?
都市部に農作物をいくら出荷しても、そこにかかるコストなどを考えれば「地元に落ちるお金」は、期待するほどではないかも知れない。
だからこそ、都市部から人を集客する必要があるのだ。

地方には、地方のビジネスがあるのではないか?
そんなことを、改めて考えたお盆休みでもあった。

都市の緑化は、急務の問題

2007-08-18 21:48:15 | 徒然
今日も名古屋は暑かった。
関東方面は、気温も下がり大分過ごしやすかったようだが、東海以西はまだまだ酷暑日続きだ。

以前から拙ブログでも書いているのだが、都市の緑化は急務を要する問題のように考えている。
その考えは、確信と言ってもいいかも知れない。
と言うのも、日本の住宅はいつの頃からか「冬仕様」の気密性重視になり、通気性など「夏仕様」と言う部分では、エアコンなどの冷房が効率良くという「冬仕様」の延長的発想で作られている。
その際たるモノが、マンションだろう。

東京都心では、高層マンションが東京湾沿岸に次々と建設され人気のようだが、その高層マンションによって「海風」が遮られ、ヒートアイランド現象に拍車がかかっているという指摘もある。
高層マンションから海が望める眺望は魅力的だが、それが原因で他の人の生活環境の質を下げてしまっているというのは、問題ではないだろうか?
もちろん、その眺望をウリとして建設を進めた企業の俯瞰的都市計画のセンスのなさ、と言うことを指摘されなくてはならない問題だとは思うが、いまさらそれを問題視しても無理な話だろう。

と言うわけではないのだが、これからマンションを建設する場合は、マンションの建築面積と同じ面積の緑地公園を併設するくらいの規制を設けてみてはどうだろうか?
実際、街中を歩いてみると「軒下」と呼べるような庇がある戸建て住宅などは、あまり見かけない。
マンションとなれば、軒下などと言うモノは設計当初からないのではないだろ、ならば、ベランダではなくテラスやバルコニーと呼べるくらいスペースに、植栽プランターを置いて、マンション全体を緑化することが大切なのではないだろうか?

こうやって考えてみると、私たちは「効率」と言うことばかりを、住宅にも求めてきたのではないだろうか?
庭に木々を植えると、そのメンテナンス費が必要となる。
空調の効率を考えれば、気密性を重視と言うことになるのだろう。
それは、ある意味当然の発想だと思う。
思うのだが、そろそろその発想を変えなくては、自分の生活が他の人の生活の質を下げてしまうだけではなく、自分の生活そのものの質も下げてしまうことになってしまうのだ。

そのはじめの一歩が、都市の緑化政策なのではないだろうか?
暑い、暑いといっても始まらない。
「暑いなら冷房」と言う発想も、今は自分本位的な感じだ。
「どうしたら、自分と社会が快適に日本の四季を楽しめるのか」と言う、視点と発想が必要なのでは?



あっ、暑い!-酷暑日に考えたこと-

2007-08-17 06:51:35 | 徒然
昨日、実家から帰ってきた。
地域によって、イロイロなお盆の過ごし方があるように、精霊送りもイロイロだ。
有名なところでは、京都の大文字の送り火だろう。
そして、お盆が過ぎるとそろそろ秋の気配が・・・というところなのだが、秋の気配どころか、日本全国が高熱に包まれてしまった。

熱中症で亡くなる方も、今年の夏は例年になく多い。
高齢者だけではなく、部活動中の中学生なども目立っている。
そこで「最高気温35℃以上が予想される日は、日本全国『シエスタ』」を、実施してはどうだろうか?
健康的な問題もあるのだが、作業効率などを考えれば少しお休みをしたほうが良いのでは?と思うのだ。
もちろん、冷房器具をフル回転させる『シエスタ』ではなく、木陰で涼んだりする「自然と仲良しシエスタ」だ。

他にも「水浴び=行水+お昼寝」など、40年位前の生活スタイルを見直してみてはどうなのだろう?
「暑い」コトには変わりがないのだから、根性や気力で暑さを乗り切るのではなく、先人の知恵を拝借するのだ。

最高気温38.6℃という猛暑を実家で経験し、家に帰ったら一気に「汗疹」ができ、それでも汗だくでPCに向かいながら、便利なモノ・コトを上手に利用しつつ、もう少しゆっくり生活をするほうが、この酷暑の日本にはあっているのではいか?と、考えた朝だ。

童心に帰るお盆休み

2007-08-09 20:39:52 | アラカルト
今週から毎日新聞のWEBサイトで、「妖怪のこころ」という記事が、連載されている。

記事中にあるように「妖怪」の存在は、こどもに対するしつけや戒めだった。
それら「妖怪」が、とても身近に感じられるような環境だった、ということも重要なコトかも知れない。
そして、こどもと妖怪はとても仲良しだったように気がする。
「仲良し」というと、違和感を覚える方もいらっしゃるだろうが、こどもの想像力の世界では妖怪も怪獣も、友だちだったように思えるのだ。
それは「こどもの想像力」のなせる技なのかもしれないが、誰もがそんな想像力を持っていたはずなのだ。

妖怪といえば、漫画家・水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」が有名だが、日本全国にはイロイロな「妖怪」がいて、こどもたちは一緒に遊んだり、怖い思いをしながら自然と生活のルールを学んでいたのかも知れない。

今週末から、日本全国「お盆休み」に入る。
都会で生活する人も、田舎へと帰る時期だ。
田舎へ帰って過ごす時間は、おとながこどもへと帰る時間なのかも知れない。
お子さんと一緒に、同じ視線でこどもになって虫取りや川遊び、海水浴などで童心に帰ってみてはいかがだろう。

さて、私ごとなのだが、今年もお盆供養のため1週間ほどお休みをさせていただきます。
拙ブログにアクセスしてくださる方々も、どうか良いお盆休みを。

YMO、ユーミン・・・次は誰?-キリンラガーCM-

2007-08-08 20:44:18 | CMウォッチ
キリンラガーのテレビCMが、変わった。
YMOからユーミンこと、松任谷由実に代わったのだ。
YMOは「ライディーン」1曲だったのだが、さすがにヒット曲の多いユーミン。
「卒業写真」と「あの日に帰りたい」の2曲が使われている。

このキリンラガーのCMを見ていると、ターゲットとなる世代が良く分かる。
団塊の世代よりも若干若い、40代~50代前半をメインにしているのだろう。
何を隠そう、YMOがアメリカ進出をしたとき高校生だった私にとって、YMOというテクノポップ・グループは、ある時代を一緒に過ごした感覚がある。
実際YMOの登場によって、ブリティッシュロックは一気にテクノサウンド中心となっていく。
それが80年代初めの「ブリティッシュ・イノベーション」として、アメリカのポップ・ロック音楽マーケットを席捲していくのだ。

対して、ユーミンのデビューはYMOよりも少し早い。
当時は、荒井由実、吉田美奈子、大貫妙子など女性シンガーソングライターが、台頭し始めた頃だった。
その中でも荒井由実は、当時流行していたフォークソングなどとは違い、どこかおしゃれで、ハイセンスな感じがあり多くのファンをつかんだ。
以来、日本のポップ音楽の第一線で活躍しつづけてきた、といって良いだろう。

実はユーミンの楽曲、特に歌詞については「トレンドを作り出すリサーチ」が、徹底的にされてきたといわれている。
それは、彼女がもっているFM・AMラジオ番組のリスナーからの手紙などから、徹底的に分析され、歌詞に反映されていたとも言われていた。
その力が十二分に発揮されたのは80年代~90年代だった。
とにかくユーミンの作り出す「音楽ワールド」が、その時々のトレンドを生み出していった、といっても過言ではないだろう。
その例が、スキーであり、80年代のラグビー(観戦)ブームだったように思う。
だからこそ、その頃20代だった多くの人たちにとっては「ユーミン=青春」という構図があり、ユーミンの曲を聴くと、その時代へと戻ってしまうのだ。

本来なら、キリンラガーというビールのファンを拡大させるために、若年層を狙う必要もあるのだろう。
しかし、あえて現在の40代~50代前半に持ってきているのは、キリンラガーというビールが、初めてのビールだった世代だからだろう。
経済的ゆとりがある程度見込める反面、安い発泡酒や第3のビールへと流れていってしまっている、という現実を踏まえ「呼び戻す」という狙いもあるだろう。
だからこそ「ラガーは変わるな」というキャッチコピーが、効いてくるのである。

さて、ユーミンの登場によって、次に起用されるミュージシャンも気になるところだ。
山下達郎?大滝詠一?はたまた竹内まりあ?
デビュー当時から音楽テイストが「変わらない」ミュージシャンばかりなのだが・・・。


「都合」というエゴを押し付けない

2007-08-07 22:30:44 | 徒然
今日から、臨時国会が始まった。
先日の参議院選挙を受けて、新人議員さんたちもこれから本格的に「国会議員」としての責務を果たしていくことになる。
少なくとも自分たちの利益(=都合)ばかりを考えるような、議員さんにはなってもらいなくないものだ。

ところで、私たちの生活を見回してみると様々なトコロで「都合」が優先されていることがある。
先日コメントを下さった、○○県の・・・さんが指摘されているような、医療現場などはその際たるものかもしれない。
実際、過疎地・都市部関係なく若い医師が携わりたくない分野では、医師不足になっている。
医師そのものの数は、決して減少しているとは思えないのだが、いわゆる「厳しい現場」は医師が不足し始めている。
それが「(産科を含む)婦人科」と「小児科」だ。
理由として挙げられるのが、「昼夜を問わない勤務」と「医療過誤による訴訟の多さ」だといわれている。
「仕事が厳しい」⇒「専門医不足」⇒「より厳しい仕事」という悪循環に陥っているのだ。

もう一つは、過疎地などを中心に起きている医師不足だ。
以前、都市部の医大に通う学生のインタビューで「自分は、田舎では生活できない」という内容の答えがあった。
おそらくそれは本音だろう。
であれば、研修医制度をもう一度見直すコトも、大切なことなのではないだろうか?
若く柔軟な発想・思考が持てる頃から、「自分は、○○なので」という凝り固まったアタマでは、救急医療の現場などでの対応が思いやられる。
そんな「凝り固まったアタマ」をやわらかくするためにも、研修医期間のあり方を検討しなおす必要があるのではないだろうか?

医師の話は一つの例だが、このような「格差」の背景の一つには、「都合」という「エゴ」の押し付けがあるような気がしてならない。
特に、それが目立ってきたのは大西さんが指摘されているように、小泉さん以降のような気がする。
問題なのは、都市部が良くなっても地方が良くならないということ。
そして様々な、発想の基が都市部中心になってきているコトだろう。
その中心にあるのが、霞ヶ関なのではないだろうか?

私は、時々「データは嘘をつく」ということがある。
もちろん、データそのものが嘘をついているのではない。
それを読み取り、企画や事業を考えるときに、「一番大切なコトを忘れている」ということなのだ。
「一番大切なコト」というのは、現場であり人のコトだ。
今日から、国会議員になったみなさんだけではなく、企業も含めて「一番大切なコトはなにか?」というコトを、常に自問自答して欲しい。



地方オリジナル食が活性化?

2007-08-06 20:52:51 | トレンド
しばらく前から、コンビニエンスストアーの入り口付近に「地域限定オリジナル商品」が置かれるようになってきた。
「地域限定」といっても、様々。
コンビニエンスストアーとの食品メーカーの共同開発という商品もあれば、メーカーオリジナルの「地域限定」もある。
最近目立つようになってきたのは、「コンビニエンスストアーと食品メーカーとの共同開発商品」だ。
このような「地域限定オリジナル」に、地方行政も参加し始めているようだ。

今日の朝日新聞のWEBサイトに特産品、進む官民提携 有名シェフと共同開発もという記事が掲載されている。
宮崎県の東国原知事誕生以来、地方では「特産品の売り込み」に熱心だ。
「特産品」を大都市部に売り込むことで、特産品の認知度を上げ、できれば観光誘致を狙いとしているようだ。
その先陣とも言える企画が、今やっている。
恒例となりつつある、キリンの「選ぼうニッポンのうまい!キャンペーン」 だ。
一番最初のキャンペーンでは、相当力の入った商品選びがされていたような気がしたのだが、キャンペーンも「恒例化」してくると、当初の「名産品」とは違う展開を見せてきているように感じる。
珍しい「特産品」という商品ではなく、「地方の伝統食」のようなモノが少しつづ増えてきているような気がするのだ。
その例が「鹿児島の奄美鳥飯」や「山梨のホウトウ〔ただし洋風〕」だろう。

地方の伝統食というのは、その地域に根ざした文化を含んだ食べものでもある。
フランス料理やイタリア料理は、都市部でもいくらでも食べられる。
しかし、伝統食はその土地に行かないと、食べることができない。
それを、少し今風にアレンジしてコンビニエンスストアーや、デパ地下、大型スーパーマーケットなどを通して、販売することで「認知度を上げる」というコトは一つの方法だろう。
問題は、その後だ。
「認知度の上がった地方の伝統食」を、地方にまで食べに来るような誘致が必要なのだ。
行政が有名なシェフと共同で、「オリジナル食」を開発するコトも大切だが、もっと足元にある財産(=伝統食)に注目してみてはどうだろう?




日本発世界の文化-「コスプレ」は世界の共通語?-

2007-08-05 08:56:12 | アラカルト
昨日から、名古屋で始まった世界的(?)イベントがある。
新聞各紙のWEBサイトでも掲載されている世界コスプレサミットだ。

「コスプレ」といえば、アキバ系のヲタクの独占分野かと思いきや、今や世界に誇れる日本の文化の一つだ。
その原動力となったのは、日本の「MANGA」や「アニメ(海外では「アニメ=日本のアニメーション」という意味らしい)」の海外での評価なのだが、このような「文化」が花開く、日本の社会の豊かさや大らかさというモノを輸出できないだろうか?と考えるときがある。
というのも、「コスプレ」を堂々と楽しめる社会というのは、一つの価値観やイデオロギー、宗教観に支配されない「寛容性の高い社会」だとも思うからだ。

「キティちゃん」が大好きで、日本文化を学び、「憧れ」の日本留学をするフランスの若い女性がいるという。
最近では、日本の「ゴスロリ(ゴシック&ロリータ)・ファッション」が、ヨーロッパのファッション界から注目されているとも言う。
傍から見れば「え゛」と思えるようなファッション「ゴスロリ」だが、見方を変えれば「ユニーク」というコトにもなり、そのファッションの一部(コルセットなど)が、トレンドとしてロンドンなどのコレクションに登場するのである。

「周囲に対して関心がなくなりつつあるから(=自己中心的で他人の目を気にしない)」という社会変化のため、という考えもあるとは思うのだが、自分とは違う価値観、思考(志向あるいは嗜好)を大目に見てしまう、という社会の寛容性があるからなのではと考えるのだ。
もちろん、そんなことが好きにできるのも「日本が平和」だからなのだ。

言い換えれば、コスプレや「MANGA」、「アニメ(または「ジャパニメーション」」は、平和な社会が育んできた文化だとも言えるのではないだろうか?
麻生さんを除く多くの政治家や、官僚のみなさんにとっては「たがが『MANGA』、『アニメ・コスプレ』」なのかも知れないが、その背景にある「戦争をしない国づくり」が、このような世界でも稀な文化を輸出しているという点を、もっと注目して欲しいと思うのだ。

日本のモノ作りの原点は、「人に豊かな生活をもたらすコト」だったとすれば、その根っこにある「平和の思想」を日本の文化として輸出することが、今の世界から日本が尊敬されるコトの一つになるかも知れない。
その始まりとしての「コスプレ」などの「ヲタク文化」に対して、色眼鏡で見るコトは既に時代遅れなのではないだろうか?
もちろん、個人的好き嫌いは別にして。





「主人在宅ストレス症候群」と更年期障害-ロート製薬のテレビCM考-

2007-08-04 21:19:38 | CMウォッチ
時々コメントを頂く大西 宏さんのブログに、「これは確かに酷い。ロート製薬のCM」というエントリがされている。

取り上げられているテレビCMは、しばらく前から流れている内容は更年期障害の緩和を目的とした、和漢方の薬だ。
最近、更年期障害などの病気に対して、和漢方薬が注目されている。
というのも、更年期障害などの病気は人によって症状も重症度も様々なため、「更年期=○○」というコトがいえないからだ。
そのため、抗生物質系医薬品のようにピンポイントで治療が難しいこともあり、和漢方系の薬品会社のテレビCMが最近目立つようになってきている。

一方、しばらく前から中高年女性を悩ましていると、問題(話題)になっている病気がある。
それが「主人在宅ストレス症候群」という病気だ。
この病気も、更年期障害同様、症状などが人によって違うといわれている。
ただ分かっていることは、定年退職によって自宅で過ごすコトになった、夫によるストレスが原因だということだけだ。

このテレビCMを見て、不快だと感じる女性は少なくないだろうし、「何故不快なの?」と思う男性もいるだろう。
個人的に問題だと感じるのは「更年期障害」という、病気が「イライラ・気分の落ち込み」という点だけで認識されることだ。
同じような症状の病気は、他にもいっぱいある。
特に「主人在宅ストレス症候群」などは、更年期の発症時期や症状が重なる点が多いのだ。
「更年期障害」だと思っていたら「主人在宅ストレス症候群」だった、ということだってあるりえるのだ。

テレビCMは、商品・サービスの広告というだけではなく、様々な「告知」や「情報提供」という要素を含んでいる。
今回のテレビCMに登場する「家でゴロゴロし、好き勝手なことを言うお父さん」という姿こそ、「主人在宅ストレス症候群」の要因となる主人像でもある。
そんなコトを考えると、「更年期障害」という加齢とともに起きる、ホルモンバランスの崩れを要因とする病気について、もっと理解を深めるCMである必要があったように思う。



「セカンドライフ」ってなんだろう?-3次元仮想世界サービスの目指すモノとは?-

2007-08-03 21:19:53 | アラカルト
日経新聞のWEBサイトに、ディズニーランドにはなれない「セカンドライフ」という記事が掲載されている。
最近頻繁に聞くようになった「セカンドライフ」という言葉だが、私にとっては「???」でしかなかった。
もちろん、ある程度の情報はもっていたつもりなのだが、どうしても興味の対象とはなってこなかったのだ。

この「セカンドライフ」という3次元仮想ネット生活タウンだが、インターネットが普及し始めた頃日本でも経済産業省(当時の経済企画庁)が、同様の構想を持ったいたように記憶している。
といっても当時の内容は、仮想ネットショッピングという「インターネット上にある、百貨店や専門店で、電子マネーを使ってショッピングをする」という、今では当たり前となっているようなコトの実験場だったような記憶があるのだが、世間的に注目される前に「終わってしまった」ような印象があった。
といっても、あくまでも私のおぼろげな記憶の中だけの事なので、本当のところは良く分からないのだが・・・。

今回の「セカンドライフ」は、そんな「ショッピングモール」とはまったく違うようなのだが、イマイチ分からないことが多い。
個人的な印象は「で、何?」という程度。
私自身がオンラインゲームなどをしない(=興味がない)、ということもあるのかも知れないのだが、その魅力がイロイロな情報からまったく伝わってこないのだ。
記事中にもあるように、「○○企業が、セカンドライフに参加」という記事を読んでも、「所詮、企業のネットCMに過ぎないだろう」という程度にしか感じていなかったのだ。

実際、企業CM(商品CMを含む)の多くは、テレビとインターネットが共存しあう状況にある。
テレビCMである程度興味を起こし、続きは「ネットで検索」というパターンだ。
既に、そのような状況の中でテレビCMの延長もしくは発展型CMを「セカンドライフ」という仮想タウンに求めるという生活者は、どれくらいいるのだろうか?

それだけではなく、その仮想タウンで「何をするのか?」という目的(=動機)が、散漫しているようにも思えるのだ。
証券会社なども参加しているようだが、そこで何をするの?という疑問がある。
投資体験などを目的とするのであれば、何も「セカンドライフ」である必要を感じないのだ。

もう一つ感じることは、そのネーミングだ。
「セカンドライフ」発祥のアメリカでは、どう受け止められているのか分からないが、今の日本で「セカンドライフ」といって思い浮かべるのは、「定年退職後の第二の人生」というところなのではないだろうか?
実は、私などは「定年退職者を対象とした、仮想都市ゲーム」程度にしか思っていなかった。

実験的なチャレンジとしては、興味深いトコロかもしれないのだが、それだけで終わってしまいそうな気がしないわけではない。
話題性は十分でも、何をするのか?どんなコトができるのか?それが仮想的世界という「枠」で完結してしまうことに「果たしてどうなの?」という気がする。
インターネットという、双方向の利点を考えるのなら「コミュニケーションツール」としての、広がり感のある「仮想と現実を結ぶ」という視点をもっと考えても良いのではないだろうか?
例え仮想であっても、結局は人が作りだしていくモノなのだから。