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日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「中間選挙が終わったから」というのが理由なのかな?

2018-11-11 23:35:16 | アラカルト

米国のトランプ大統領が、戦没者追悼式典をドタキャンしたらしい。
Huffpost:トランプ大統領「雨だから」とドタキャン 戦没者追悼式典への欠席で批判殺到

「雨で、予定をしていたヘリコプターが飛ばなかったため、式典を欠席した」というのが、理由らしい。
第一次世界大戦の激戦地となったのは、欧州でありトランプさんからすれば、戦没者と言っても100年近く前の話で、現実感が無いということなのかもしれないが、歴代の大統領が出席をしてきた大事な追悼式典に理由はどうであれ、出席しなかったというのは、批判されても仕方ないだろ。

一つ気になったことがある。
それは「中間選挙前だったら?」という点だ。
米国の中間選挙が行われたのは、先週の火曜日。
既に、上院では与党である共和党が多数を占め、下院では野党の民主党が多数を占めることになった。
トランプさんとすれば、中間選挙において一定の評価を得た、と思ったのではないだろうか?
だからこそ、さほど興味のない(?)第一次世界大戦での戦没者追悼式典を欠席しても、問題はないと考えたのでは?という、気がしている。
逆にこれが中間選挙前だとしたら、トランプさんは雨降りでも出席をしたのでは?
理由は、「退役軍人会(のような組織)」に対する票取りだ。

トランプさん支持派の中には、共和党の大票田となっている「福音派」と呼ばれるキリスト教の団体(というのだろうか?)がある。
トランプさん独自?の熱狂的支持者は「穀倉地帯」と呼ばれる中西部の保守層だと、言われている。
もちろん熱狂的な支持の理由は、保護主義的経済において一番恩恵にあずかる可能性が高いからだ。
事実、トランプさんの貿易政策にはその傾向がみられる。

だが、共和党・民主党関係なく政治的な影響力を及ぼす団体がある。
その一つが「退役軍人」を支援する「米国在郷軍人会」や「海外派遣退役軍人会」だと言われている。
というのも、米国には「退役軍人省」という、退役軍人およびその家族のケアや年金給付などをする省庁がある。
それだけではなく、米国では第一次世界大戦が終結をした11月11日は「退役軍人の日」となっている。
AmericanCenterJapan:11月11日「退役軍人の日」
今でも第二次世界大戦から直近の退役軍人は、2500万人以上いると言われている。
その彼らにとって、どのような戦地で命を落としたとしても、自分たちの仲間が命を落とした場所で行われる追悼式典に時の大統領が「雨」という理由で、出席しなかったという事実は、屈辱的な感情を抱かせることくらい、トランプさんでもわかっているはずだと思う。

もちろん11月11日の「退役軍人の日」には、何等かのメッセージをトランプさんがTwitterなどで、つぶやくことはあるかもしれない。
しかし、第二次世界大戦の主要国のトップが追悼式に雨の中出席したのに、トランプさんだけが「雨」を理由に出席しなかった、という事実は、退役軍人の方々の支持を失った可能性はあるように思う。
にもかかわらず、「雨」を理由に欠席できたのは、中間選挙が終わりその結果として「自分が支持をされている」と自信をもっていたからなのでは?という気がする。


工業化で、忘れてしまったこと

2018-11-09 20:25:33 | ビジネス

時々拝読させていただく、日経新聞のコラム・COMEMO。
その中でも「なるほど!」と、考えさせられるのが大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムだ。
COMEMO:とんちんかんな日本、つながりが悪い日本

今回のコラムを読んでいて、商品価格と商品価値の違いとは?と、考えてしまった。
京都の西陣織りや友禅など、人の手をかけてつくられた商品はとても値段が高い。
「値段が高い」というと、「銭金の話は下世話だ」と感じられる方もいらっしゃると思うのだが、事実高額な商品が多い。

高額な商品と言ったとき、思い浮かぶ「商品の値段」を決めるのは「人件費」だと思うだろう。
もちろん、素材そのものも逸品と言われるような素材を使っていることは、想像できる。
ただ、その場合想像できる範囲というのは、その「商品」をつくっている人や材料と言った部分にとどまってしまうことが多いのでは、無いだろうか?
確かに、そのような材料や人の手間なども重要な「価格要素」であることには違い無いのだが、その「商品」をつくるための道具や道具を作る人、道具をつくるための材料、というところまで想像することは難しいと思う。

しかし「伝統工芸品」と呼ばれるものだけではなく、様々な商品には目の前にある商品は、そのものをつくる人や材料、道具、道具をつくる人、道具の素材などが積み重なりあって出来上がっている。
そう考えると、自分が想像するよりも多くの人が関わり、関わる人達が使う道具があり、その道具の為の材料の価値が、価格となって反映されている、ということになる。

ところが、工業化によりそれらの過程の多くは、人の手から機械へと移り、道具も大量生産された均一の物へと変わっていった。
その結果、「商品の価値」ではなく「商品価格」で、商品の良し悪しを決める傾向が生まれてきたのではないだろうか?
もちろんそれが、戦後日本だけではなく世界の経済を発展させる原動力になったのは、間違いないだろう。
「大量生産・大量消費が良い」によって、日本は高度成長を成し遂げたのだ。

それが行き詰まり、バブル崩壊後経済的立ち直りができないまま30年近く経ってしまった。
今だに「高度成長期」のような、経済成長を目指すようなことを言われる方(特に政治家に多いような気がするのだが)もいるが、多くの人たちは「高度成長期」のような経済成長は無理だと、感じているはずだ。
むしろ「高度経済成長」ではない、経済の在り方をここ30年探し求めてきたともいえるのでは?

伝統工芸のような、素材や素材をつくるための道具を厳選し、手間と時間をかけて人がつくる商品が、市場に溢れるという時代ではないが、つくられる商品の価格ではなく価値を生み出すものは何か?という、想像からビジネスを考えることが必要かもしれない・・・という気がする。


グローバル企業でなくても、人種や人権を考える時代になっている

2018-11-08 18:53:07 | アラカルト

AppleWatchのCMをご覧になった方は、多いと思う。
youtube:AppleWatch Series4-Hokey Pokey

このCMをご覧になって、気づいたことが無いだろうか?
実に様々な人々がCMに、登場している。
人種や宗教、障害を持っている人、高齢者などなど、今までCMに登場することが無かった様々な人たちが、いろいろな場面に登場し、AppleWatchを健康サポートのツールとして、楽しみながらスポーツやダンス、さりげない日常の場面などで使っている、という内容になっている。

これまでグローバル企業と呼ばれる企業CMあるいは商品CMには、様々な人種の人たちが登場する、というのが定番であった。
AppleWatchは、もう一歩・二歩踏み込んで、宗教や障害、高齢者など、これまでのCMや社会でタブー視?されるような人たちまで、登場させている。
「AppleWatchには、人種も障害も年齢も関係ない。人生を楽しむ人たち全てのツール」と、言うメッセージを謳っているかのようだ。
と同時に、このようなアプローチはいかにもAppleらしい、と感じた方も多かったのではないだろうか?

今や企業CMや商品CMには、このような「すべての人」にアピールできるような内容が、必要な時代になってきている。
それはAppleのような世界的な企業に限ったコトではない。
今日のHuffpostに、改めて人種ということを考えさせられる記事があった。

Huffpost:「バレエ史に残る歴史的瞬間だ」老舗メーカーが茶色のトウシューズを開発したわけ。

「バレエ史に残る歴史的瞬間」とは、大げさな!と思われる方も多いと思う。
私も大袈裟だな~と、最初思った。
しかし考えてみると、ここ20年ほどで日本人バレリーナが世界的コンクールで優勝するようにはなったが、それ以前は手足の長さや細さなどでは圧倒的に欧米の白人の独壇場だった。
むしろ、今のように日本人バレエダンサーがコンクールで優勝あるいは、優勝に次ぐような賞を受賞し、欧州の名門と呼ばれるバレエ団のトップダンサーとなることは、夢のまた夢のような世界だった。
まして、黒人のバレエダンサーとなれば、もっと厳しい状況だっただろう。

世界のバレエ界が、肌の色などで差別をしていたわけではないと思うのだが、どこかで黒人のバレエダンサーに対する評価は、白人のダンサーに比べ高いとは言えなかったのでは?と、感じている。
白人か日本人をはじめとするアジア人であれば、トウシューズはピンクや白で問題はなかったが、黒人のダンサーが増えれば、当然のことながらダンサーの肌の色に合わせる必要が出てくる。
英のメーカーがやっとそのコトに、気づき製造を始めた、ということは「バレエ史に残る」ような出来事だろう。

バレエのトウシューズそのものを製造・販売をしている企業そのものが、小さく・大きな規模ではないのだから、ある意味仕方のないことだろう。
しかし、今という時代だからこそ、世界的企業云々ではなく、様々な人種や人権などに考慮した情報を発信しなくては、社会から受け入れられない、ということのあらわれだろう。

 


若者たちが求めているのは、どんな繋がり方なのだろう?

2018-11-02 21:26:33 | ライフスタイル

31日の渋谷をはじめとする、都市部の「ハロウィン騒動」の記事の中で、気になったコトがある。
それは、そのような騒ぎに乗じたい若者の中には、「誰かといっしょに写真を撮り、Instagramに上げたい」とインタビューに答えていたのだ。
そして「ハロウィンを一緒に楽しみたい」という理由で、渋谷や戎橋、名古屋ではオアシス21に来た若者が、少なからずいた、ということだった。

おそらく普段の生活の中では、学校や職場でも一緒にお昼ご飯を食べたり、おしゃべりをする相手がいない訳ではないのに、「誰かといっしょにいたい」という気持ちは、どこから来るのだろうか?
日常の中にある他人との関係性に満足できていないのか?日常とは別の人間関係を持ちたい、ということなのだろうか?
最近時々新聞などで話題になる「表の自分とは別にネット上で繋がる虚構を含めた自分」の中での繋がりを持ちたい、ということなのだろうか?
とすれば、その「繋がり」はとても刹那的で、連続性の無いもののように思う。

むしろそのようなイベントで一緒に写真を撮り、Instagramに上げたところでそれは一緒に撮っただけ、人との繋がりはないということくらい、よく理解しているだろう。
とすれば、Instagramで「いいね」をしてくれるフォロワーとの繋がりのために、ハロウィンで仮装をし、楽しんでいる自分を媒体にし、フォロワーと繋がっていることで、新しい人間関係をつくっていると思い込んでいるのではないだろうか?

Instagramで「キラキラした自分・素敵な自分」アピールのツールとして、ハロウィンの仮装があり、様々な意味で注目されているスポット・渋谷(あるいは戎橋)に集まり、騒いでいるとしたら、それは「(ひとり)ぼっちの辛さ」の裏返しのような気がするのだ。
それは日常生活での人間関係が、表面的でその場しのぎだと感じているからこそ、自分が話題の中心になれるSNS上での匿名性の高い人間関係に安心し、アピールできるのでは?

今の20代の多くは、生まれた時からインターネットがあり、面と向かった人との付き合い方以外のネット上の人との繋がりを持つようになった世代でもある。
むしろ、ネット上には様々な情報があり、自分と同じ思考や趣味の人を見つけることが簡単にできる。
そのような繋がりは、互いに共感性を持ちやすく、同一化しやすいはずだ。
だからこそ、ネット上の繋がりのほうが、自分らしさを持てる関係だと思い込んでしまっているのではないだろうか?

集団心理が働き、暴走する若者たちの姿は、その仲間に入ることで安心を求めているのかもしれないし、ネット上の知り合いに自分の凄さをアピールしているのかもしれない。
(ひとり)ぼっちは辛いが、深入りしない「ライト感覚な繋がり」を、求めているようにも思えるのだ。


若者は何故「渋谷」で騒ぐのか?

2018-11-01 21:24:51 | 徒然

昨夜は、ハロウィンの路上イベントが自主的に各地で行われたようだった。
そして今年も、一番の盛り上がりを見せたのは東京の「渋谷」だったようだ。
もちろん、大阪の道頓堀にかかる「戎橋」でも同様の騒ぎがあったようだが、全国ニュースとなるとやはり人出などから東京の「渋谷」ということになるのだろう。

これらのニュースを見ながら「若者は何故『渋谷』に集まるのだろう?」と、疑問に思った。
おそらく、様々なイベントごとに「渋谷」に若者が集まるようになったのは、2002年のサッカーW杯日韓大会の頃からのように思う。
この時は日本サッカー協会が、渋谷区の道玄坂にあったために、若者が集まってきたのだろ程度に考えていた。
以来サッカーの国際試合では、「渋谷」が「騒ぐ聖地」となったように思っていたのだが、サッカーとは関係のないイベントごとに若者が集まり、大騒ぎをするようになると「何故、渋谷?」という、疑問がわいてくるようになった。
これは、大阪における「戎橋」と同じかもしれないのだが、「戎橋」は以前から阪神タイガースの優勝などでも、多くの若者が集まり「戎橋」から道頓堀へダイブする、という光景は見られたので、東京における「渋谷」の騒ぎとはやや違うのでは?という、気がしている。

一方、実は名古屋でも昨夜はハロウィンで若者たちが集まった場所があった。
その場所は「オアシス21」という、栄のほぼ中心にある商業施設兼バスターミナルの1F広場だ。
「渋谷」や「戎橋」と大きな違いは、場所が「広場」であるということだろう。
路上ではないので、施設内の店舗などには迷惑がかかるが、一般通行人などには迷惑が掛かりにくい場所だともいえる。
当然、「渋谷」や「戎橋」ほどの騒ぎにもなりにくい(と思われる)。
もっとも、名古屋の場合栄などの繁華街は車の通行量も多く、「渋谷」のような大きなスクランブル交差点などもない。
下手に路上で騒げば、身の危険があるという事情もあるかもしれない。

ネットで私のような疑問を持った方はいないのだろうか?と、検索をしてみるとやはり同じような疑問を持たれる方が、何人かいらっしゃった。
その中で興味深かったのは「地形」の問題という、指摘だった。
「渋谷」という場所が、すり鉢状の底にあたるため、人が流れてきやすいのでは?という、指摘だ。
もちろん、「渋谷」にはJRや私鉄など複数の路線の乗り換え駅となっている為、元々人が集まりやすい場所ということもあるだろう。

もう一つは、路上ということも関係しているのでは?という、気がしている。
上述した通り、名古屋の「オアシス21」のような広場では、最初からハロウィン目的で人が集合する。
通行人が、その場の雰囲気にのまれて騒ぐ、ということではないのだ。
もちろん「渋谷」や「戎橋」に仮装して集まった若者たちは、最初からそのつもりで来ているはずだが、人の流れが起きることである一定の人数を超えてしまうと、爆発的にその場の雰囲気にのまれて騒ぐ人が集まりやすくなるのではないだろうか?
いわゆる「火事場の野次馬」のような現象だ。
火事場は、場所が特定されないのでその場限りとなってしまうのだが、「渋谷」や「戎橋」は既に「若者たちがイベントで騒ぐ場所」と、認知されてしまったことで、「騒いでも良い場所」という認識になって、より人が集まり・群集心理のような暴徒化しやすい状況を作ってしまうのではないだろうか?

ただ一つ言えることは、このような「暴徒化した騒ぎ」が起きることで、イベントそのものへ批判が強まり、興味が薄れる(=「騒ぐって、カッコ悪い」という認識の一般化)も起きやすい、ということになると思う。

いずれにしても、ハロウィン市場そのものは2016年のピークに縮小傾向にある、と言われている。
とすれば、このようなハロウィン騒動も数年後には、沈静化しているかもしれない(と、期待している)。